呪縛からの時効
自分では気づいていないつもりでいたが、本当にそうだったのだろうか。確かに気が付いた時は、まるで目からウロコが落ちたような気になっていたが、本当は最初から分かっていたような気がする。気付かないふりをしていたということすら自覚がないほど、自分がまわりに対して無関心になっていたということに、あらためて驚かされた気がしたのだった。
コーヒーの香りに、トーストの匂い。さらに最近ではベーコンエッグまで作るようになり、まさにホテルか喫茶店のモーニングを彷彿とさせられた。
阿久津は、喫茶店でのモーニングが好きだった。特に大学の近くは喫茶店が連立していて、早朝からやっている喫茶店も多かった、大学院に入ってからはギリギリまで寝ていることが多くなっていたが、大学時代は少し早く来て、モーニングを食べるのが日課だった時期がある。
歴史の雑誌を買ってきては、毎日のようにもーににぐを食べながら読んでいた。大学四年生になって、卒業も大学院進学も決まってからの毎日は、それまでの毎日とは少し違っていた。
拍子抜けした毎日ではあったが、気持ちにゆとりを持つことができた。そんな時に喫茶店に寄ってモーニングを食べるという日課が、阿久津の拍子抜けを解消してくれた。
もっとも、この時の拍子抜けが、その後の家での、
「やる気なさ」
と引き出したのだとも感じていた。
阿久津にとってはなくてはならない時期だったとは思うが、手放しに喜べない時期でもあった。
そんな時期というのは、人生のうちにはえてして何度か訪れるものだと阿久津は感じていた。
「いいことの裏には、悪いことが潜んでいる可能性を秘めている」
と今でも思っているが、その思いを抱かせたのはこの時だったのかも知れない。
この時は、いいことだと思っていたその裏に、悪いことが秘められていたということであったが、逆も今までには存在したのではないかと思っている。悪いことが表に出ていると、なかなかその裏にいいことが潜んでいてもなかなか気付かないものである。それを見逃したのだとすれば、自分の人生の中で、
「もったいない時間だったのではないか」
と感じられるようになった。
コーヒーを淹れる時間がもったいないなど、こーひを毎朝淹れるようになってから感じることはなかった。ただそれは自分が一人暮らしをしている時期だけのことで、結婚してから結婚生活が続いている時期だけは、朝の食卓は奥さんに主導権を握られているので勝手なことはできなかった。
だが、それが嫌だったわけではない。それ以上に楽しい時間を朝のひと時として与えられたと思ったからだ。
それは先のことであって、助手になったばかりの阿久津は、朝の時間に変化を感じるようになってから、徐々に家での時間が変わってきた気がしていた。
その日、ふと目にとめた封筒に高校の名前と、同窓生としての幹事の名前を発見した時、何か新鮮な気がした。
「同窓会か、一度くらいは行ってみてもいいかな?」
と感じた。
今まで一度も参加したことのない阿久津が参加して、他のメンバーはどう感じるだろう。
「いまさら何しに来たんだ」
と思うだろうか?
それとも、
「やあ、本当に久しぶり」
と言って、普通に懐かしがってくれるだろうか?
阿久津は、そのどちらであっても、別に構わないと思った。
「後者だったら、もう参加しなければいいんだ」
と思ったからだ。
要するに、参加してみなければ何も始まらないと考えたからであって、それが前向きであるということに気付いたからだった。
それに、今は大学院を修了して、いよいよ大学に就職したわけだから、今までとは立場が違うと思ったからだ。高校時代の阿久津を知っている人であれば、まさか彼が大学院に進んで研究者の道を進んでいるなどと思っている人はいないだろう。それだけでも浸ることができるであろう優越感に思いを巡らせ、想像は果てることがなかったのだ。
同窓会は想像していたよりも豪華なところで行われた。どこかのホテルでのパーティ会場での会食というまるで結婚式の披露宴のようではないか。
それまでの阿久津はほとんどそんな会場に出席したことはなかった。社会人になっていれば、そんな機会もあったかも知れないが、そんなこともなく、まわりに結婚する人もほとんどいなかったので、披露宴に招かれることもなかった。
テレビドラマなどで見ることはあっても、想像するだけだった。会場を開いて中に入った時、天井の高さと、白を基調にした壁なのに、想像以上に艶やかに見えた雰囲気に、高級感と重量感を感じた。
圧倒されている阿久津に幹事の男性が寄ってきて、
「やっと来てくれたじゃないか。初参加、ありがとう」
と言って、声を掛けてくれた。
素直に嬉しくて、笑顔で挨拶したが、本当に久しぶりに素直になった気がした。幹事の顔を見てお、最初は高校時代の雰囲気も顔も思い出せなかったが、人がどんどん増えてくるうちに、
――本当にこの雰囲気、初めてなんだろうか?
という懐かしい気分に包まれていく自分を感じた。
やはり同窓会という場所では自分は浮いていた。声を掛けてくれる人はほとんどおらず、何しろ卒業してから十年以上も経っていて、卒業後会ったことがある人など、ほとんどいないのだからしょうがない。
それでも、よく観察してみると、自分に声を掛けてみたいのだが、声を掛ける勇気が出ないという雰囲気の人もいて、
――皆同じなんだな――
と、ある意味ホッとする気分にさせられた。
そんな中、一人の女性が声を掛けてきた。
「あの」
モジモジしているとはこういうことをいうのだろう。
お見合いであれば、畳に「の」の字を書くというが、まさしくそんな雰囲気を醸し出していた。
「はい」
阿久津も声を掛けられてまんざらでもなかった。しかも相手が女性で、こういうモジモジしたタイプが好きな阿久津には、痺れるような展開だった。
「私、実は今まで参加したことがなくて、今日初めて参加したんですが、話し相手がいなくて、よろしければ、お話しませんか?」
モジモジはしているが、口調も話もしっかりとしている。思わず臆してしまいそうな阿久津だったが、ここは毅然とした態度を取らないといけないと思った。
「そうなんですね。実は僕もなんですよ。僕のこと、覚えていますか? 阿久津と言いますが」
というと、相手は急に元気になって、
「阿久津君だったんですね。私、有田です。有田香苗です」
と言った。
「ああ、有田さんだったんだね。すぐに気付かなかったよ。ごめんね」
阿久津は、有田香苗のことは記憶にあった。彼女は覚えていないかも知れないが、一度学校からの帰りに急に雨が降ってきて、彼女が傘を持っていなかったこともあって、
「そこまで一緒に行きませんか?」
と声を掛けたことがあった。
それを聞いた香苗は、二つ返事で、
「ありがとう。助かるわ。そこまでいけばコンビニがあるから、よかったらそこまででいいんですけど」
と言って、本当に助かったという顔をしていた。
「いえいえ、困った時はお互い様だよ」