短編集71(過去作品)
宣伝部の人と話をするようになったのもその頃からで、宣伝部の情報にすがりたいのが本音だった。宣伝部はさすがにいろいろ情報があり、結構気兼ねなく教えてくれた。
――宣伝部の方がよかったかな?
と思うほど、宣伝部と企画部では部内の雰囲気は変わっていた。気さくで社交的な宣伝部、コツコツという重苦しさに支配された世界がここまで無為な広さを感じるなど思ってもみなかったと感じさせられた企画部。それぞれに私は愛着があるが、私が三十代に差し掛かる頃の企画部は特に暗かったかも知れない。
「独立すればいいのに」
と他の部署の人も話しているほど、同じ部屋でこれほど違った雰囲気だと、異様な雰囲気以外の何も感じられないことだろう。
そんな中に一人潔癖症の同僚がいた。必ず部屋に入る前には、手をアルコール消毒し、私物にもアルコールを振りかけるほどだった。
マイアルコールを持っていて、毎回使用していた。
健康にはいいかも知れないと思っていたが、結構体調を崩して会社を休んでいる。元々身体が弱いから、健康には注意していて、時々体調を崩す程度で済んでいるのかも知れない。
実際のところは分からないが、潔癖症が功を奏しているのだと思うと、彼の性格は持って生まれたものではなく、環境によって作り上げられたものではないかと思えるのであった。
会社の仕事も几帳面だった。そう思うと、持って生まれた性格を持ち合わせながら、次第に彼を潔癖症に作り上げていったのだろう。
知らない人はとっつきにくい人だ、彼は自分にも厳しいが、人にも厳しい。厳しいというよりも細かいと言った方がいいかも知れない。
「やっぱり、ついていけないや」
と言って、部下は彼を決していい上司とは思っていないようだ。融通は利かないし、変な正義感に包まれ、部下を苛めているようにしか思えないというのだ、
上司からの受けはいい、潔癖症はどうあれ、真面目に仕事をし、それなりに結果を出しているとなると、会社からすればありがたいことだ。
会社を出れば彼の性格は少し変わる。真面目さが少し取れ、社交的になる、潔癖症だけはそのままで、しかし社交性が出たことで、社外での友達は少なくない。
端正なマスクであるが、真面目な雰囲気が全面に出ていることで、女性受けはまちまちだった、好かれるのも両極端で、敵も多ければ味方も多いといった感じであろうか。味方には真面目な人が多い。性格的にいくら隠しても隠せないものはあるようで、似た性格の人には分かるのだろう。知らず知らずに引き寄せられたという感じが彼の中にはあるのかも知れない。
彼は名前を田丸という。
課長からの推薦もあってか、同僚の私よりも先に係長に昇進した、主任になるのは私の方が早かったのに、よほど主任に先になられたのが悔しかったのかも知れない。
――今の田丸は有頂天なんだろうな――
と思えた。
有頂天が決して悪いことではないが、図に乗らなければいい。もっとも田丸に限っては、悔しい思いをバネにすることはあっても、図に乗ることはない。それが彼の長所でもあったのだ。
潔癖症な彼にも彼女はいた。隠す必要はないように思うのだが、隠そうとしているのが見え見えだった。意識すればするほど目立つもので、彼のすることはいちいち目立っていたようだ。
元々の性格から起因しているのかも知れない。真面目な性格のせいもあってか、彼には由も悪しも目立ってしまうことが、今回はいい方に働いたのだ、それだけ努力をしたということでもある。
田丸という男の正義感は、時として危ないこともある。マナー違反を見つければ、黙って見過ごすことのできない性格で、電車の中での携帯電話、歩行者の咥えタバコなどのマナー違反には、注意しなければ我慢できない性格であった。
そのために何度も相手と喧嘩になっているとのことだが、悪いのは向こうである。それだけに彼の行為をいさめることはできない。だからと言ってほどほどにしておかないと、そのうちに大けがをしかねないだろう。田丸のことを考えると、私も黙っているわけにはいかなかった。
「あまり無理しない方がいいぞ」
「うん、分かっているんだけどね。どうしても黙っているわけにはいかないんだ」
「見ていて危ないって何度も思ったぞ」
「心配かけてすまない。だが、どうしても我慢できないんだ。性格的なものなんだろうけど、でも誰かが言わなければいけないことさ。それが今はこの俺だということなんじゃないかな?」
と田丸は自分に使命感を植え付けているようだった。話をすれば素直に聞くのだが、目の前でマナー違反のやつがいると、彼は我を忘れてしまうようだ。それは話をしていて雰囲気で分かることだった。
「田丸は、どうしてそんなにマナー違反が見逃せないんだ?」
「実は小さい頃に、友達の家が火事になって全焼したことがあったんだ。それはタバコの火が原因だったらしいんだが、友達の家では誰もタバコを吸わない。調べてみたら、家の裏に捨ててあったゴミから発見されたというじゃないか。きっとどこかの誰かが咥えタバコを捨てたに決まってるのさ。それから俺は咥えタバコを許せなくなって、さらにマナー違反の連中すべてを許せなくなったんだ」
話しているうちに彼が興奮してくるのが分かった。子供の頃に受けたショックがかなりのものであったことを示している。だからといって、あまりやりすぎるのも問題だ。私は田丸の気持ちが分かるだけに、余計に彼のことが心配だった。友情というよりも、
――私がしようと思っても性格的にできないことを、田丸がやってくれているんだ――
という気持ちが強いからである。
確かに私は田丸ほど正義感は強くない。だがマナー違反は許せないほどだ。誰もが守っているマナーを一部の心無い連中によって崩されている。それは同じ喫煙者から見ても迷惑なことに違いない。
「一部の心無い連中のために、俺たち真面目にマナーを守ってタバコを吸っている者まで悪者のように思われるのは、心外なんだよね」
当然のことである。私が喫煙者だったとしても同じことを考えたことだろう。
法律的には何の拘束力を持っていないマナーの問題は、その人のモラルによるものだ。その人がモラルなどどうでもよくて、他人との関係を拒否してしまっているのであれば、どんなに注意しても無駄である。注意されれば余計頑なになり、怒りの矛先は田丸に向けられるだろう、それが恐ろしいのだ。
――失うものがない人が相手だったら、怖いよな――
とも思う。屈折した性格には屈折でしか対応できない。決して交わることのない平行線を描いているようで、私はゾッとするものを感じた。
しかし、田丸は悪いことをしているわけではないのだ。それを思うと、世の中の理不尽さがどれほどのものか、考えないわけにはいかない私だった。
私は田丸と似たような経験があった。それは友達の家が全焼してしまったという事実である。最初に聞いた時にはビックリした。
――まさか、同じ友達なのか?
と思ったくらいだが、全焼した理由が違っていた。
田丸の友達の家は、他人によってつけられた理不尽な火だったが、私の友達の場合には違っていた。
作品名:短編集71(過去作品) 作家名:森本晃次