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短編集71(過去作品)

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 離婚してから、好きになった人がいないわけではなかった。だが、どこか一歩踏み込めない自分がいる。今までであれば、相手が嬉しければ私も嬉しい。相手に気を遣うことも苦にはならないほど、自分が優しさに溢れていることを誇りに思うほどだった。
 誇りは自己満足でしかなかったことに気が付いた。別れたはずの嫁さんが懐かしく感じる。子供の顔も目の前をちらつく。
「俺は新しい人生を歩み始めたのではなかったか」
 と思う気持ちが、少しずつ剥がれていくのを感じた。
 過去をよかったとして振り返るのは、本当はいけないことなのかも知れない。だが、過去があって今がある。その事実は覆すことはできないのだ。
 まさか離婚した相手を「よかった」として思い出すとは思わなかった。だが、その思いがあるからこそ、今まで生きてきた証をしっかりしたものとして思い出すのだろう、
「あの頃が一番よかったんだ」
 と思うことが過去を否定しないことになるというのも皮肉なことだった。
 潔癖症だった自分だけはなぜか思い出すことができない。自分が潔癖症だったという事実も薄れてきている。しかも、潔癖症だった時期は結婚していた一時期だけ、それ以外は大雑把な性格である。どちらかが表に出ている時はどちらかが隠れているのかと思ったが、結婚している時は、どちらの性格も表に出ていたように思う。交互に出ていて、まるで阿修羅の面のようだった。
 結婚している時、私は自分の性格を隠そうとしていたように思う。すべてを表に出してしまうと、二重人格がバレてしまうと思い、なるべく無難な性格だけを表に出そうとしていたのだ。
 表に出た性格を妻はどう思っていたのだろう。
 大雑把な性格になると見えていなかったものが見えるようになってくる。逆に見えていたものが見えなくなったという懸念もないわけではないが、それを差し引いても、見えなかったものが見えてくることに興味津々の私だった。
 今まで自分の好みの女性しか頭の中にはなかったが、それ以外の女性もいろいろ見えてくる。興味が湧いてくると、いろいろ見えてくることに気付いたと言っても過言ではなく、私の中で本当は興味を持ちたかったのだが、向こうが私のことを相手にはしてくれないという思いが強かった。
 潔癖症が嫌われる要因ではないかと思っていた。まず、自分が自分で嫌だったのだ。何潔癖症の自分が嫌だったか。それを思うと、大雑把な性格が相手に与えるイメージが大きくなったことを示している。
 まず、相手が私に対しての想像を豊かにするだろう。神秘的にも見えるかも知れない。神秘的な男性には魅力があると思っているし、女性はそんな男性に惹かれるのだとも思っている。
 大雑把な性格が決していい性格だとは言えないかも知れない。潔癖症と比較して、女性の中には潔癖症なくらいの人を好きだという人もいるだろう。だが、それは本当に潔癖症な人を知らないからではないだろうか、知っていれば、どれほど鬱陶しいか、さらには自分に対してもかなり深い部分で細かくいうに違いない。そんな男性の束縛にも似た干渉にその女性が耐えられるというのか、私には大いに疑問だった。
「あなたって、そんな人だったのね」
 と言われて、好きだったことも忘れ、かなりの罵倒を浴びせられることを覚悟しなければいけないだろう、
「何言ってるんだ。君はそれを分かっていて付き合っていたんだろう?」
 などと言えば、まさしく火に油を注いだようなものだ。触れてはいけない相手のプライドに触れて、傷つきやすい場所を遠慮なく傷つけてしまうに違いない。妻がひょっとしてそんな感じではなかったのかということにやっと最近気付いた。そういう意味では私は妻に悪いことをしたのかも知れない。
 だが、大雑把な性格だとそんなことはない。相手にはいろいろなパターンのイメージを植え付けるだけの余裕がある。それは時間的にも空間的にもあるような気がする。私は好きな女性のイメージが自分の中で広がっていくのを感じた。
 田丸が死んでからしばらくしてから、田丸の部屋から小説の書きかけが見つかった。内容は誰か一人の潔癖症の人間を書いた内容だった。それは、最近見かけなくなった作家のことだろうという話になり、さらには、
「あれは彼だったんじゃないか」
 という話になり、未完成の遺作は、自分のことを書いているのではないかと言われた。
 だが、半年もしないうちに遺作として発表されたその作品を読んだ時、
「これは俺のことじゃないのか?」
 と感じた。
 几帳面だと思いながら実際には潔癖症のため、人から嫌われ、孤独を背負い込んでしまう人生である。私にとって、そんな人生はまっぴらごめんなはずなのに、一人でいることの方が気が楽に感じられる。
「この思いが潔癖症の一番の特徴なのだろう」
 人から嫌われるが、自分では嫌だとは思わない。むしろ几帳面な性格の方が嫌である。几帳面であると、どんなことに対しても我慢しなければいけない気がするのだ。それは人からなるべく嫌われたくないという思いが働き、人に気を遣うようになるからだった。
 元々私は、人に気を遣うことが好きではない。そこかにわざとらしさを感じ、本当は自分の意思ではないのにしなければいけないという使命感のようなものに囚われていることで、余計な神経をすり減らすことを嫌った。
 潔癖症というのは、あまり人に気を遣わない。逆に自分が人から嫌われるように仕向けることがあるくらいで、
「俺は他の人とは違うんだ」
 と、自分の中で他人との差別化を定義づけている。
 私は几帳面な人間が嫌いだ。きっと几帳面な人も潔癖症だった頃の私が嫌いだったに違いない。それが妻であり、結婚した頃は同じような几帳面な人だと思ったのかも知れない。
 交際期間があまり長くなかったことで結婚までこぎつけたが、もしもう少し交際期間があれば、結婚したかどうか分からない。今から思えば結婚のエネルギーは思ったよりもあったに違いない。だが、離婚の時は考えていたよりも少なかった。それは最初から無理な結婚だったことを心のどこかで感じていたからなのかも知れない。
 交際期間は長ければいいというものではないが、相手の欠点がいつ頃見えてくるかが問題になってくる。私は交際期間は短かったんだと思っている。
 私がいつ潔癖症の目が出始めたのかというのを思い出してみた。こんなことは今までに考えたこともなかった。
 潔癖症の自分を今から思い出そうとすると、遡りすぎてしまうのか、指についた墨を思い出す。子供の小さな手に塗られた墨は、本当は犯罪者との指紋の違いを見つけるためのもののはずなのに、まるで犯罪者にでもなったかのような気持ちになった。まだまだ子供で、指紋が犯罪捜査に必要なものだということすら知らなかった頃だ。それなのに、何かを察知したとでもいうのか、あの感覚は潔癖症であるがゆえではないかと思うのだった。
 潔癖症の人間の手に墨を塗るなど、言語道断。いくら警察とはいえ、知らない人たちだ。親は黙ってしたがっていたが、もし自分が親くらいの年齢だったら、断固拒否したかも知れない。
「犯人は自分だと言ってるようなものだぞ」
作品名:短編集71(過去作品) 作家名:森本晃次