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短編集71(過去作品)

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 だが、子供の成長としては、あまりいい傾向ではない。笑って泣くこと、それだけが子供の自己表現なのだ。このままでは無口な子供になってしまうかも知れないという危惧は妻にも私にもあり、二人の間の確執に、今度は子供のことを考えなければいけなくなってしまった。
 それでもお互いに会話があるわけではない。無言の時間が長ければ長いほど修復は難しい。元々、無口な妻は、
――私にだけは心を開いてくれているんだ――
 と思い、その感覚が私にとって一番接しやすい相手としてお互いに気持ちが通じ合っていると思っていた。
――何かあれば話してくれるさ――
 この思いが妻に対しての思いで、何も言わないのは、平穏な証拠だというのが、交際期間中の思いだった。結婚してからもその思いを強く持っていたので、会話のない確執の期間も、
――そのうちにうまく歯車が回るさ――
 と、他力本願の希望を抱いていた。決して楽天的ではないと思っていた私が最近は、事なかれ主義になっていくことに疑念を抱きながらも、妻に対してどうすることもできない自分を客観的に傍観しているしかなかったのだ。
 一度狂った歯車はなかなか戻らない。
「離婚には結婚の何倍ものエネルギーを使うからな」
 と離婚経験のある先輩の話を思い出していた。その頃にはすぐに離婚の二文字が浮かんだわけではないが、ひたひたと何かの足音が近づいてくるような気がして仕方がなかった。それが何か分からないまでも、私にとって、よからぬ足音であることだけは想像がついたのだ。
――他の家庭も同じようなものなのかな?
 と思って、思い出すのは結婚する前に二度と帰らぬことになった田丸のことだった。私が彼女に入り込んだ夢を見てしまったことは今でもハッキリと思い出せる。今の妻の気持ちに近づくことができないのにである。複雑な女心に私はどう対処していいのか戸惑いながら、思い出してしまった田丸の彼女が今どうしているのかと思いを馳せてみるのだった。
 思いはあの時のようにすぐに彼女を思い出させてくれない。どこかに心が通じるトンネルのようなものがあって、そこを私が通って彼女に入り込んだのではないかと思うと、今度は逆に彼女が私の意識しない中で、私に乗り移った感覚をどこかで感じているのかも知れないと思った。
――同じ時期だったのかも知れない――
 葬儀の時、そんな素振りはなかったが、素振りはない中で私を意識していたのかも知れない。
 私は時間に流されるだけで、妻と話をすることはなかった。妻は妻でいろいろ案が得ていたようで、何も言わないのは、考えていたからだろう。
 女性の場合、夫婦間で何かを決める時、自分から話を切り出す時は、すでに腹には決まったものがあるという。その時の私はそのことを知らなかった。妻が離婚を口走った時、私にとっては分かっていたことのはずなのに、まるで青天の霹靂だった。
 当然戸惑いもするし、何とか説得も試みる。しかし、意を決してしまった妻には何を言っても通用しない。私の説得はまるで言い訳にしかならず、説得しているつもりが無理を押し通しているわがままに見えてしまうかも知れない。
 説得がかなわぬとなると、泣きつくしかない。それこそ情けない。
――いつも最後は情けなくなる――
 自分の人生がいつも情けなさで終わることを宿命づけられているように思えてならないのだ。
 離婚はすぐに成立した。まわりからは、
「二人ともまだまだこれからなんだから、まずは子供のことを考えて、無理を押し通すようなことはしない方がいい」
 とたしなめられた。確かに無理を通してもロクなことはない。これを機会に人生をやり直せばいいのだ。
 だが、私にはやり直す人生が見えてこない。まだまだこれからと思っている間に時間だけが過ぎていき、新しい出会いも、すべてが他力本願であった。自分で彼女を見つけるのが怖いのである。
 彼女も他力本願ではなかなか見つからない。自分で探そうにも、自分の好みが分からなくなっていた。妻のような女性が好みだと思っていたのに、今では妻のような女性が怖いのだ、それを思うと、どのように探していいのかが分からない。
 寝ている時に毎日のように寝汗を掻いている。寝汗はあまり身体にはよくないらしく、医者に診てもらったことがあったが、別に異常はないということ、寝汗をぐっしょりと掻いた朝は、身体が重たくて仕方がない。重たい空気が身体にへばりついているようで、汗が空気を逃がさないのだ。
 一晩に何度もシャツを着替えることで、夜中に身体を動かさなければいけないのは辛いことだった。ただ、完全に起きていないので、そこまで身体が重たいというわけでもない。重たい身体を本当に感じるのは、夢の世界から現実に引き戻される時、寝ている時の私は、夢の世界を忘れてしまうことが嫌なのかも知れない。身体の重たさは、ささやかなる抵抗なのだろう。
 私は離婚すると、今までの潔癖症がまったくなくなってしまっていた。
「もうどうだっていいや」
 という投げやりな気持ちがそうさせるのかも知れない。だが、離婚してからというもの、気持ちが軽くなったのも事実だ。いとおしいと思っていた妻だったのに、別れの時の睨み方を見れば、百年の恋も冷めるというものだ。
「どうしてあんな人が好きだったんだ」
 別れてしまうと、まわりの女性が綺麗に見える。何と現金な目なのだろう。自分が楽天家だなどと思ったこともないくせに、流されやすい性格のため、事なかれ主義者に見られがちではないだろうか。
 嫁よりも、子供の方が別れるに当たっては辛かった。何といっても自分と血の繋がりがあるからなのだろうが、今までに私は血の繋がりをあまり意識したことはなかった。
 親はいつまで経っても子供は子供と思っている。構われれば構われるほど子供は親を冷静な目で見てしまう。しかし、親に嫌なことを言われても、心のどこかで意識してしまって、無意識にいうことを聞かされてしまっている。親の魔力なのだろうか、それとも子供はどうやっても親に逆らえないということなのか。何しろ、年齢の差は縮まることも広がることも生きている限りありえないことなのだ。そう思うと、親に逆らえない気持ちも分からないでもなかった。
 潔癖症にこだわっていないつもりで、しかも潔癖症を毛嫌いしていたくせに、その自分が一番の潔癖症だなどとこれほどの皮肉があろうか。
 しばらくは一人でいたかった。
「彼女がほしい」
 と思わないではなかったが、少しの間一人でいたいと思うのは、それだけ離婚に費やしたエネルギーの大きさを感じる。
――離婚というのは本当に結婚の何倍ものエネルギーがいるんだ――
 と今さらながらに思い知った。結婚は隠しても隠し切れないほどの表に発散するエネルギー、離婚は、自らを戒める思いと、今までの後悔などの記憶を呼び起こすような思い、それぞれが負のエネルギーとなって青く静かに燃えているような感じであった。
 結婚してからの私は、甘えが前面に出ていた。新婚の亭主は家に帰ればまるで赤ちゃんのように奥さんに従順になると言っていた人がいたが、そこまではないにしても、すべてを甘えさせてくれなければ、そこに私の居場所はないというくらいに甘えのオーラが渦巻いていた。
作品名:短編集71(過去作品) 作家名:森本晃次