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短編集71(過去作品)

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 仕事の関係で、土曜日が休みになることはまれだった。休みは日曜日と平日のどこかとなり、平日の休みが最初は嬉しかったが、次第に寂しくなった。どこかに出かけるのが億劫になってきたからかも知れない。年を取った証拠だろうか。人ごみが嫌いになったという自覚はあるが、平日の人ごみのなさでも億劫に感じるというのは、休みの日独特の脱力感があるからなのかも知れない。
 人ごみといえば、会社の近くにあるスクランブル交差点。渡っている時、いつも誰かに見られている気配を感じる。皆誰も気にすることもなく、下を向いて歩いている姿が目立ち、
――ここほど活気のない場所はない――
 と思うほどだった。人だけはたくさんいるのに活気がないと寒気を感じる。悪寒が走り、背中に冷や汗をたっぷりと掻いている。重たくて湿気を帯びた空気は、身体に纏わりついて、気持ち悪さしかなかった。
 私の中では重たい空気は冷たいものだと思っていたが、交差点では暖かな空気である。暖かく重たい空気など想像もつかなかったが、通りぬける頃には、涼しさが戻ってくる。戻ってきた冷たさで、掻いてしまった汗がどんどん乾いてくる。体温が一気に落ちてくるのを感じると、気だるさを覚える。日差しは容赦なく照り付ける中、私には交差点を抜けた時間が何だったのかと、思わなくてもいいようなことを思うのだった。
 この感覚は春夏秋冬、季節には関係ない。毎回感じることは同じなのだ。
 こんな気持ちになった最初は、嫁と知り合った頃のことだった。それまで孤独だけが人生のように思っていた私に変化が訪れた。変化は心に余裕を与えたが、余裕があるわりには、経験することはおかしなことが多かった。
 あれは休みの日に会社から呼び出しがあった時だった。彼女との待ち合わせをキャンセルし、自分が悪いわけではないのに、自分のせいでトラブらせたようなバツの悪さを感じていた。気持ちは情けなさが一番で、呼び出しを食らうことが情けないと思いながら、
――何で俺なんだ――
 と心の底で感じていた。情けなさはまわりが自分に対しての目から思うもので、自分が直接的に感じているものではなかった。
 仕事に行く時は、本当にべそを掻いていたかも知れない。会社に着くと、当番の対応者が一人で右往左往していた。私はすぐに対応を行い、何とか事なきを得たが、その時のミスが私の立場を少し端に追いやったのは致し方ないことかも知れない。
 それから、会社に対して明らかにやる気をなくしていたのは間違いないだろう。仕事自体は嫌いではないが、社会の厳しさを目の当たりにしてしまうと、どうしても引いてしまう。
 対応が終わりクタクタの状態で交差点に通りかかった。交差点では、いつも出会う人が通りかかる。相手は私を意識しているが、その日の私は意識することができなかった。それがある意味悪夢の始まりだと言っても過言ではない。
 翌日から、交差点で私を意識する人が増えた。相手は田丸にそっくりの人で、田丸と彼女が仲良く歩いているのである。二人は私を意識しているわけではない。ただ私の横を通り過ぎるだけなのだ。その日から私は仕事上で、何かの選択を迫られることが多くなり、そのたびに考えている頭の中に溜まると彼女お姿が浮かんでくるのだ。しかも彼女のイメージは私が夢の中で感じたイメージとかぶってしまっているために、ただでさえ混乱している頭の中が集中できなくなってしまう。雑念となぜか後ろめたさを頭の中で感じている自分が分からなくなってしまう。
 雑念もさることながら、なぜ後ろめたさを感じるのか分からない。田丸とはずっと会っていなかったし、彼女を想像したことはあっても、実際に会ったこともない。それなのに、交差点で見られていたり、見られることが自分の中に後ろめたさを植え付けているように思えてならないのだ。
 田丸はこの世に何かの未練を残して死んでいったのかも知れない。自殺説もあったが、こうなると、それもまんざら信憑性がないわけでもないように思えてくる。自殺した人がこの世に未練を残し、誰かにそれを分かってほしいと、その人に訴えるために出てきているのだろうか。
 そんな毎日がしばらく続き、私は少しノイローゼのようになっていた。妻も私の異変に気づいていたが、気を遣ってか、何も言わないようにしてくれている。こんな時、下手に同情されたり心配されるのは、傷口を広げるように気がして、私は嫌だったのだ。
「私、そろそろ子供がほしくなったの」
 と、妻が私に話したが、その時は私の中の呪縛がほとんどなくなっていた時だった。いつもそばにいて、私のことを見ていたので、私のことを一番よく分かってくれているのだろう。妻の発言は絶妙のタイミングだった。
「そうだな、俺も子供がほしいって思っていたんだ」
 半分が思い付きなのだが、子供を意識し始めたのも本当のことだ。
 それに子供ができれば少しは違った生活に踏み込めると思った。子供ができて大変なのは分かるが、せっかく悪夢から抜け出せたのだから、これを機会に心機一転というのもいいかも知れない。
 妻の懐妊はそれから数か月後、私は嬉しいというよりもホッとしたというのが本音だった。思っていたよりも私は子煩悩だったようで、子供の顔を見るのが楽しくてしょうがなかった。そのおかげか、本音は表に出ることもなく、自分の気持ちの中だけで消化されていた。
 私も妻も子供の方が気になるようになっていた。これは私の想定外であった。妻が子供にかかりきりになるかも知れないとは思い、少し自分の時間をたくさん持てるのを期待していたはずだった。それがホッとしたという本音だったのだ。
 ただ、子煩悩であったが、面倒なことはすべて妻に任せていた。私は表で仕事をしていることを理由に、子供に癒しだけを求めていたのだ。中途半端な子煩悩は妻にすぐに悟られたようで、いかにも不満そうな表情が見て取れた。そんな妻を見て、
――何でそんな目で見るんだ――
 と、こちらも見返してみる。
 そこに会話はない。会話が成立すれば、その場で修羅場になってしまうのが想像できたからだ。お互いに修羅場を演じる気力はない。冷たい視線を戦わせるのが精いっぱいだった。
 だが冷たい視線の方が、体力を使うということに、お互い頭が回っていない。気持ちは想像であって、想像というのは果てしないものだ。会話を想像でしてしまうと、幾通りにも広がり、収拾がつかなくなる。そんな架空を描いていることほど無駄な体力を使っているのと同じである。
 無駄なことが分かっていた。だが相手の視線を感じる以上、想像しないわけにはいかないのだ。想像することで見かけだけだが、平穏が保てるからだった。
 さらに無駄な体力は、子供にも影響しているようで、子供が笑うよりも泣く方が多くなった。そこまではまだよかったのだが、今度は子供があまり反応しなくなった。笑わなくなったし、泣くことも少なくなった。子供心に親に心配させないように考えていると思うのは、親の勝手な思い込みなのだろうか。
作品名:短編集71(過去作品) 作家名:森本晃次