短編集71(過去作品)
誰か知っている人なのだろうか? 私の近くで子供を産んで、寂しそうにしている人を見たことはない。孤独を感じている女性がそばにいれば私には分かる。自分が寂しさの中にいるので、同じオーラを発しているはずだからである。
寂しさは内に籠る習性を持っていながら、表に対しては何かの信号を送っている。ほとんどの人は気付かないと思うが、毎日を一人で孤独を感じながら生きている人間にはよく分かるというものだ。
「孤独なんて言葉、あまり口にしちゃいけないよ。せっかく幸せが近くにいても逃げちゃうからね」
小さい頃に、祖母が言っていたのを思い出した。確かにそうかも知れないが。言っても言わなくても感じてしまった孤独から逃れるのは簡単なことではない。祖母はきっと慰めのつもりで言ったのだろう。
「いや、俺の考えが捻くれているのかも知れないな」
と苦笑いをしてみたが、孤独が解消されるわけでもない。一旦人との別れを経験してしまうと、別れに対して慣れのようなものを感じ、一度の別れに一つ、何か大切なものを失っていくと思いながら、そのことに対して深く考えないようにしていた。
女性になった感覚を覚えたのは、そんな別れに対しての慣れをどうにかしようという無意識な中で考えたものだったのかも知れない。女性というまったく違った感覚を想像することで、どこまで近い感覚を持てるか、自分で試してみたくなったようだ。祖母の言葉を思い出しながら、私は孤独をいかに解消しようかと試行錯誤しているのかも知れない。
私は小説で自分が女性になったイメージを書いたことがあった。もちろん、妄想の中には自分が感じたことも十分に含まれている。私に「作文」ができるほど純粋ではないし、発想も豊かではない。妄想は発想よりも奇抜ではあるが。発想ほどの膨らみはない。ストーリーも堂々巡りを繰り返しているようで、最後まで集中して書けたかどうか自信がなかった。
女性になった自分はどうしていいか分からず、人に会わないようにしないといけないと思った。人に会ってボロが出てしまうことが怖かったのだ。最初に会う人も問題である。相手が男なのか女なのかで大きく変わってくるし、可能性が高いのは、当然家族であろう。
父親だったらどんな目で見られるだろう。父親が娘を見る目というのは、想像しただけで気持ち悪い。好奇の目でジロジロ見られるのではないだろうか。年頃の娘が父親を急に汚いものを見るかのようになるという話は今までに何度も聞いたことがあった。
もし私が本当の娘であれば、父親を気持ち悪いと思いながらも、笑って許せるところがある。血の繋がりによる親子の情というものなのかも知れないが、もっと言えば、父親を男性として見ていないのだ、
子供の時に憧れる父親とは違う。子供の頃に見る父親は、娘にとって唯一の男の存在なのだろう。男性として見ていないくせに、男というと父親しかイメージが浮かんでこない。憧れをいかに憧れのままで通せるかが、娘のその後の父親に対して、ひいては、男というものに対しての見方が変わってくるものなのかも知れない。
では、母親と会った場合はどうであろう。
私は父親よりも警戒してしまう。女性同士だという思いで見ているだろうから、女性にしか分からない何かを感じ取って、すぐに娘の中にいるのが、別人であることを見抜くに違いない。見抜かれてしまっては、見抜いた方に脱帽せざる負えない。しかもまさか相手が男だとは想像もつかないに違いない。母親にとっては。最後まで娘だと思い通そうとするのではないだろうか。
女性は現実的で勘も鋭い。自分が男性だと知って驚愕するだろうが、すぐに我に返り、
「あなたはこれから女性として生きていくのよ」
と、他人事にしてはしっかりとした口調で言われると、説得力を感じさせる。説得力とは、私にとって心強いものだ。特に自分が女の身体になって、男にはなかった頼もしさや強靭さに気付いた。母親はきっと娘を育てるにあたって、頼もしさや強靭さをしっかりと身に着けいていることだろう。
母親の手を何気なく見た時、手の平がまっ黒になっていた。
――指紋を取られたのかな?
父親の手もまっ黒だった。さらに自分の手を見ると、まっ黒になっている。さっきまでは乾燥したような手のひらだと思っていたのに、急にヌルヌルした感覚に襲われた。まっ黒な手が笑っているように見える。それは父のも母にも感じた。そして、私自身にも感じることだった。
取られた指紋は年輪のような輪をいくつも作り、かといって、年輪とはまったく違っているものに思えていたが、違うものだと感じた。年輪は木の中で生きているのだが、指紋は生きていない。まったく動かないのが年輪で、指紋は主人が動いている限り動くというものである。動くものすべてに法則があり、決して無駄な動きは一つもない。誰とも一致はありえないというのも非常に不可解で、小説の題材には、格好の材料なのではないだろうか。
手についた墨の匂いが、鉄分を含んだ嫌な臭いに感じられた。気が遠くなるのは、身体から血が溢れだしているのを感じたからだ。女性に「月のもの」があることは分かっているので、それほどビックリしなかったが、ビックリしているのは自分よりもまわりだった。
さっきまで近くにいたはずの両親がいなくなり、知らない人がまわりを囲んでいる。まわりの人は私のことを知っているらしく、心配そうに私を見ている。
だが、よく見ると、心配しているのは表面上だけで、実際には心配しているふりをして、その後の自分の立場をよくしようという考えが見え隠れしている。女性の目というのがそれほど鋭いものなのか、それとも、私が入り込んだ女の子自身が、まわりをよく見ることのできる女性なのだろうか。
――女性とはこんなにもあからさまなんだ――
と思えるほど、明らかに顔の裏に潜んでいる影を見ることができた。まるで自分に透視力がついたかのようである。本当であれば、私にも備わっている力なのかも知れない。人間は自分の潜在能力のほんの一部しか使っていないという。少しでも潜在能力を自由にできる人がいれば、「超能力者」ということになるのだろう。一部のまわりにはたくさんの能力が渦巻いている。超能力というのは実に幅が広いものなのであろう。
だが、逆に言えば。自分には気付かなくても、相手にこちらの気持ちが筒抜けなのかも知れないと思うとゾッとするものを感じる。
笑っている顔には、さまざまな思いが溢れている。
――一体彼女は、まわりの人に何をしてきたんだ?
と思うほどあからさまであった。
しかし、私には彼女の穏やかな気持ちが見て取れた。穏やかだからこそ、まわりがよく見えるのかも知れない。まわりの人がこんなにも敵意に満ちた、憎悪にも似た視線を感じながらここまで穏やかになれるのは、何かよほど自分に自信がなければできないことではないだろうか。
作品名:短編集71(過去作品) 作家名:森本晃次