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一生勉強、一途に文芸道~小説と私~

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 作品が認めて貰えるということに純粋な歓びを見いだしていた若かりし自分は、良い意味で素直であり、幸せ者であった。
 人はいつしか大切なことを忘れ果て、一つが手に入ればまた更にもう一つを手に入れたいと願う貪欲な生きものだ。もちろん、そんな欲があるからこそ向上心も生まれ、更に高い目標に向かおうと努力もできるのだが、まかり間違えば、ただ高みに到達しようという野心のみが大きく育ち、素朴な歓びをなおざりにしてしまう怖れもある。
 自分の俳句が作品集に載るのを夢見て、瞳を輝かせている娘を見て、久しぶりに忘れかけていた大切な何かを思い出したような気がする。
 娘にはまだ話していないけれど、本当に素敵な気持ちを久々に呼び起こして貰った。
 恐らく、そんな素朴な気持ちを人は「初心」と呼ぶのだろう。
 長い道を歩き続けていると、とかく目的地がどこだったのか見失ってしまうことがある。時には立ち止まり、自分は何をしたかったのか、どこに行こうとしていたのかを考えてみる時間は必要なのだ。
 俳句作品は葉書での応募なので、雨が降り止んだのを見計らって私がポストに入れたのだが、果たして、雨に濡れて折角のインクが滲まないかと余計な心配をしている。以前、知人からの手紙が雨に濡れて判読不可能なほどに滲んでいたことがあるのだ。
 作品の出来はともかく、ここまで愉しみに頑張って初挑戦したのだから、せめて娘の作品が無事にきちんとした形で事務局まで届いて欲しい。
 さて、私もそろそろ応募の準備を始めるとしようか。今年は初めて母娘と揃っての挑戦になる。初めて尽くしの年だから、これもまた嬉しい記念すべき年になるのは間違いない。

☆「執筆は少々の向上心と自尊心を持って楽しく」
 久々に辛口コメントを貰った。ネットや小説サイトではなく、個人間のやりとりにおいての出来事である。
 いや、よくぞここまで書いてくれたーと、怒りよりは呆れるほどのレベルだ。とはいえ、フリーの編集者や校正・翻訳の仕事をしている人だから、作品を見る視点は厳しいのは当然だ。
 、、、ではるあるのだが、失礼ながら今、コロナが各線拡大中の首都圏にお住まいであり、自らも日々引きこもり中の日々に鬱憤が溜まっていると断言されている。いささか、長引く引きこもり生活で溜まりに溜まった鬱憤を私にぶつけてきたのとさえ思えてしまう。
 私の作品がいかに拙くても、相手に対する最低限のマナーは守るべきだろう。その基本的なマナーが守れていない。
 しかし、プロの編集の厳しい視点はまたとない後学の師とはなるので、ここは謙虚に受け止めて次に活かしたいと思う。
 しかし、この人の手紙を繰り返して読み単に欠点をあげつらうのと、相手を育てるために敢えて厳しいことを言うのはまた別次元の話だと改めて感じた。
 この言い様では、心の弱い人、もしくは、これから文筆の道を進もうかという志したばかりの人はあえなく挫折するに違いない。
 褒めて育てるという言葉がある。ご当人の言い分では褒めるところがなかったのかもしれないが、この文面は間違っても「悪いところを正して良い方に伸ばしてあげよう」という優しさや配慮は欠片ほどもない。
 ただ、悪いところをあげつらっているにすぎず、一度でも子供を育てた経験のある方なら、こんな言い方はしないだろう。
 もっとも、好意的に解釈すれば、
ーこの人ならば、このくらいは言ってもめげずに受け止めて、跳ね返して進むだけの強さがある。
 と、私を買い被ってくれたのかもしれない。
 だが、実のところ、私はそんなに強くもないし、精神的にタフでもない。
 あれだけこき下ろされたら、手紙を読んだ直後は頭が真っ白になったほどの衝撃を受けた。そのことを恐らく、言ったご当人は想像もせずに書いたのだろう。
 もう少し言い方があったものをと、何度繰り返し読んでも思わずにはいられない内容だ。
 思えば、この人との付き合いは長いが、もう10年近く前にも似たようなコメントが来たことがあった。
 そのときは怒りに任せて書いた返事を結局、出さなかった。数日、置いたままにして後日、自分で読み直して敢えて出さなかったのは、出せば終わりだと判っていたからだ。
 あのときも酷いコメントだったが、今回はそれ以上かもしれない。いや、振り返れば、長い付き合いの中では、結構言いたい放題に言われてきた憶えはあるけれども、それはまあ、「ここが気に入らない」程度のもので、そんなコメントは当たり前なものだったから、特に落ち込むことはなかった。というより、落ち込んでいては身がもたなかった。
 今回はまさに、あの10年前のワースト1に匹敵する辛口も激辛だった。
 あのとき、すぐに書いた返信をすぐにポストに入れていれば、私たちの仲はとうに終わっていた。
 十年前は数日後に、当たり障りのない返事を書き直して出したのだ。怒りに任せて書いた最初の手紙はまだ手許にある。
 十年前の出来事があって以来、しばらく私はその人と距離を置いた。そうしたら、向こうからまた手紙が来て、作品を読みたいということで復活したのだ。
 どうも今回はなかなか衝撃が強すぎて、やはりまたしばらく距離を置こうと考えている。よく言われるのは、耳に良い、心地良いと思える言葉ばかり聞いていては成長は望めないという言葉だ。
 ただ、やはりモノには限度というものがあり、最低限守るべきマナーというものがあるだろう。確かにプロなのかもしれないが、人間的にはどこまで出来た人なのか、知れたものではないと思える部分がある。
 執筆だけではない、物作りというものは、心が大切だと私は常々考えている。
 本当にその人は私のためを思っての言葉なのだろうか。そうと信じたいところではあるし、信じなければ救われないから信じるけれども、物を作る人にとって一番大切な心をずたずたにされてしまったら、経験の短い人であれば本当に立ち直ることができず、二度と書けなくなる。
 私はアマチュアではあるが、一応、この道を歩いてきた年数だけは長い。ある意味、いろんな方面で打たれてきているから、多少烈しく叩かれてもまた立ち直ることも辛うじてできるとは思う。一歩間違えば、彼女の言動は書き手の未来を潰しかねない暴力行為だ。
 どうも、ご当人がプロということもあり、私にも相応の力を求めているというか期待している節もある。これも好意的に考えれば、それだけ期待してくれている、頑張れば、それだけの実力を発揮できる人だと思ってくれているからこその苦言なのだろう。
 だが、断っておくが、私はプロを目指しているわけではないし、プロ並みの作品を書こうと思っているわけではない。
 極端かもしれないが、小説は楽しく書くもので、泣きながらーしかも血の涙を流しながら書くものではない。
 私の目標は「楽しく書くこと」だ。ここがクリアできていれば、後はもう読む人が少しでも愉しんでくれたらなら、それで言うことはない。それが本音なのだ。
 考えみて欲しい。書いている本人が楽しくなければ、読んでくれる人が楽しいと思えるような作品を書けるはずがない。
 だから、もし私を叱咤激励する意味で、あんな手紙を書いたのなら、それは大きな間違いということになる。