心理の裏側
モノクロ時代の昔の映画を見て、鮮血が出ているシーンを見たことがあったが、その時に確かに生々しさをリアルな恐怖として感じたのを思い出していた。
夢で色や音、そして痛みを感じないのは、まるで活動写真を見ているような感覚なのだろう。
もちろん、活動写真など見たことがないので、それがどんなものなのか想像もつかないが、モノクロ映画で感じたリアルな恐怖を思い出すと、想像できなくもなかった。
愛華は夢の世界を、
「潜在意識のなせる業」
だと思っている。
意識していることでなければ見ることができない。そして自分の中で常識として認識していることしか、夢の中では起こりえないと思っているのだ。
つまりは夢で起こることは、現実でも十分に起こりえる。夢という恐怖は、現実の恐怖と同じではないか。
次元の違いはあるかも知れない。背中合わせなのかも知れないが、超えることのできない結界が存在し、どちらにもそれぞれの現実が存在する。
どちらもウソの世界ではない。夢で見たことは紛れもなく現実の裏側で起こっていることなのだ。
正夢という言葉があるが、逆に夢の世界から見た現実の世界はどうなのだろう?
夢の世界を現実と感じ、同じように現実世界を夢として見ている、
「もう一人の自分」
がいるのではないだろうか。
「もう一人の自分が夢の中に出てくる」
という意識が残っているというのは、間違いのない意識なのだろう。
間違いのないというのは、
「夢の中にもう一人の自分が出てきた」
という認識で、見た瞬間に、目が覚めてしまったという現象をも含めたところでいうのではないかと愛華は感じた。
愛華が最初にもう一人の自分を見てから、その存在を次第に意識するようになっていたが、その存在がどんどん膨らんでいくという感覚ではなかった。
分からなかったことが分かってくるという感覚でもなく、ただ夢の中に出てくる自分は夢を見ている愛華の存在に本当に気付いているのかどうなのか、まったくリアクションがなかった。
何しろ、その存在に気付いた瞬間に目が覚めてしまうのだから、それもしょうがないことだ。もう一人の自分が現れた瞬間、目を覚ますというフラグがオンになってしまうのだろう。
一瞬だけのことなので、相手も何を考えているのか分からない。ただこの一瞬は、夢の中で流れている時間とは明らかな違いを感じた。
――まさか、もう一人の自分を見た瞬間というのは、すでに夢から覚めていたんじゃないかしら?
と感じた。
「夢というのは、目が覚める前の数秒に見るものだ」
という言葉を改めて思い出した。
どんなに長い夢であっても、ほんの数秒などと考えると、夢というものの非現実性を蚊が得ないわけにはいかない。やはり夢の世界というのは、
「侵すことのできない神聖なものなんだわ」
と思えてくるのも無理もないことだった。
だが、愛華はもう一人の自分の存在に気付いてから、少し考えが変わってきた。確かに夢というのは得体のしれないものであるが、潜在意識のなせる業だと思っている愛華にとって、一番の恐怖は潜在意識なのではないかと思えた。夢自体が怖いものではなく、潜在意識をいかに映像にして映し出そうかという結果が、夢として出ているだけではないかと思えたからだ。
ただ、その考えに無理があることにも気づいていた。
潜在意識を形にして見せるのが夢であれば、どうして覚えていない夢が存在するのかの説明がつかない気がしたのだ。
この結論はひょっとすると考えても出てこないかも知れない。しかし、考えることによって、発見できなかった新しい真実に巡り合えるのではないかと思うと、考えることの意義を感じることができるのだった。
愛華はもう一つ夢に対して疑問に感じているのは、
「どうして、覚えている夢は恐怖の夢ばかりなんだろう?」
という思いだった。
正夢という言葉があり、実際に見た夢が現実として起こったことがないことで、
「正夢なんて迷信なんだわ」
と思っている人が多いだろう。
正夢という言葉が存在する以上、過去の人の中には本当に夢が現実になったという人もいるだろうが、それを証明することはできない。人伝えに伝わって、時代を超えて現在にその言葉が残っている。そういう意味では正夢を信憑性のあるものだとは、とても言えないと思った。
愛華は最近、もう一人の自分に対しての考え方が少し変わってきたことに気付いていた。もう一人の自分というのは、実際に存在しているという考えだ。
ただ、それは夢の中の世界でだけであり、見た瞬間に消えてしまう。
それを夢の中で見ているわけではないという発想に至ったのは、少し性急だったかも知れないとも思うようになった。
夢は実に近いものであり、声が聞こえるくらいの場所にいて、実際に見えないという次元の違う世界であり、
「同じ空間にはいるのだが、次元が違っている」
という四次元の発想とを結びつけるようになった。
愛華は、
「夢の共有」
という発想を持ちながら、他の人と夢を共有しているという発想にはどうしても至ることができなかった。
しかし、夢の共有という発想を、
「もう一人の自分との共有」
と考えれば考えられなくもない。
しかも、ここまで考えてきたうえで考えられることとしては、
「もう一人の自分と共有しているのは、夢なんかじゃないんだ」
という思いだった。
もう一人の自分を見た瞬間に目が覚めてしまう。そして、夢というものは現実の世界とは違った速度で時間が経過し、そもそも時系列なんてもの自体。存在しているのか怪しいものだと思っている愛華には夢の世界でもう一人の自分と遭遇しているとは、どうしても思えなかった。
――そうだ、遭遇なんだ――
会っているというわけではなく、見た瞬間に消えてしまうのだから、表現としては、遭遇というのが一番しっくりくるものではないだろうか。
つまりはもう一人の自分と遭遇する時間は、現実世界の時間と同じ流れになっているのではないか、そしてその世界には色も痛みも音も存在しているのかも知れない。あまりにも一瞬なので、そのことを感じることはできないが、明らかに夢の世界とは別物だと言えるのではないかと感じている。
そう、表現するとすれば、
「夢と現実世界の狭間」
という表現がピッタリなのではないだろうか。
「もう一人の自分と夢と現実の狭間で夢を共有している」
という結論が愛華の頭の中にはあった。
それが本当の行き着く先の結論なのか分からないが、少なくとも考え方の節目であることには違いない。
そんな節目を感じてしまったのだから、
「夢ともう一人の自分」
という関係について、頭の中から離れなくなってしまっていた。
これ以上何もないかも知れないが、どんどん膨れ上がってきた発想が一休みして、再度動き出すことを予感しているのも事実である。
愛華にとって、現実世界と夢との境界を考えるのは、
「気が付いたら考えていた」
と思うほど、自然に考えていることが多くなっていた。
元々、いろいろなことを想像したりすることの多かった愛華は、
「いつも気が付けば何かを考えている」