心理の裏側
それを意識したのは、家や近所の人と接する態度が変わってきてからだ。まるで腫れ物にでも触るような気の遣い方は露骨に感じられた。小学生の頃、隣に住んでいたお姉さんが高校受験の時もそうだったが、
「お宅のお嬢さんも今年高校受験、大変よね」
と奥さんの井戸端会議の会話が聞こえてきた。
奥さん連中は、ヒソヒソ話をしてはいるが、本当に誰にも聞こえないほどの小さな声で話しているわけではない。そんなに小さな声で話をしていても、聞こえるわけはないからだ。
それでもヒソヒソ話をするのは、自分たちへの言い訳のようなものなのかも知れない。言い訳さえしていれば、少々他の人に聞こえたとしても、それは許されることなんだと言わんばかりである。
受験生のお母さんは、そう他の奥さんから聞かれて、
「ええ、そうなのよ。あの子が一生懸命に頑張っているのを見ると、こっちも何かしてあげなければいけないという気になってくるわ」
と、わざとらしいくらいに語気を強め、相手に訴えているかのようだった。
「そうよね、分かるわ、受験生ってそういうものだからね」
と、言われた奥さんはそう答えた。
受験生の奥さんも、聞かれた奥さんも語気の強さにわざとらしさが感じられたが、印象に残ったのは語気の強さだった愛華にとって、
――受験生は大変なんだ――
という思いだけが頭に残った。
目の前で話している奥さん連中は関係ない。いずれ近い将来訪れるであろう高校受験から逃げることはできないのだから、愛華にとっては、奥さん連中の会話よりも受験生というものがどういうものなのかということの方が重要だった。
だが、奥さん連中の会話を聞いてもう一つ感じたのは、
――気を遣われるというのも、嫌なものだわ――
という感覚だった。
「もし自分が受験生であり。まわりから気を遣われているということが分かれば、どんな気分になるだろう?」
愛華は、自問自答してみた。
実際に受験生ではないので、想像の域を出るはずもないが、腫れ物に触られる思いが嫌だということだけは想像がついた。
思春期になった頃から、愛華は眠っていて、よく足が攣るようになっていた。その理由はハッキリとは分からないが、通学距離が伸びたことで、歩く時間が長くなったことに起因していると思っていた。
足が攣る時にはいつも前兆のようなものがあり、眠っていて、夢を見ている時であったとしても、
「あっ、来る」
という思いがあれば最後、次の瞬間には足が攣っているのである。
今では少しコントロールができるようになり、前兆から何とか我慢することも覚えたが、最初の頃は逃れることはできなかった。
足が攣ると、呼吸をするのも苦しいくらいに痛みが一点に集中し、その部分が棒のように固くなり、
――こんなに太かったのかしら――
と感じるほどになっていた。
まるで伝説の動物である「ツチノコ」を彷彿させた。
息ができないそんな状態でも声を出すことはできるようで、思わず苦痛から叫んでしまいそうになるのを必死で堪えていた。
「うっ、うっ」
シーンと静まり返った部屋の、ベッドの中で一人苦しんでいる様子は、想像に耐えるものではないかも知れない。思い出すのも嫌なくらいの思いなのだろうが、その時も心境はまず、
――早く痛みをやり過ごしたい――
と感じることだった。
痛みが永遠に続くなどありえなく、一定の時間我慢すれば痛みは次第に和らいでくる。いつも痛みの時間は同じ時間に感じられた。だから余計に耐えることもできるようになってくる。やり過ごしたいという思いも慣れたもので、シーンとした静寂の中でただひたすら耐えればいいだけだった。
もう一つの心境としては、
――この痛みを誰にも知られたくない――
という感覚だった。
別にまわりに誰もいるわけではないのだが、もしこの痛みが皆と一緒にいる時に襲ってきていれば、誰にも知られたくない。まわりからは、
「大丈夫?」
と心配する声が聞かれることだろう。
文字に書けば同じ言葉でも、ニュアンスは人によってまったく違う。井戸端会議の奥さんのように、わざとらしく語気を強める人もいれば、心配そうにしてはいるが、声のトーンは明らかに他人事のようで淡々としたものである。
愛華はそのどちらも嫌だった。気にされるのも嫌だし、気にしてもいないくせに気にしているような素振りを見せられるのも嫌である。こっちは痛みに耐えているのに、そんな時に特に人間の裏側がよく見えるというのは、何とも皮肉なことであろうか。
だから愛華は声を出さないようにしていた。
この頃から愛華は他人のわざとらしさであったり、白々しさを感じるようになり、人間嫌いになっていった。
本当の人間嫌いというものがどういうものなのか知らない愛華なので、人間嫌いの人から見れば、
「あなたと一緒にしないでほしい」
と言われることだろう。
愛華は誰にも言われたことはなかったが、
「あなたのこと、私は嫌いよ」
と、一度言われてみたいと思っていた。
きっとショックなのは間違いない。数日たちなれなくなるくらいになるかも知れない。しかしその感覚を味わうことがなければ、自分が人を嫌いになったということを自分に納得させることはできないだろう。
それが自分にとってどれほど中途半端なことか、愛華は感じていた。
その思いが夢というものに感じている思いと、どのように関わっていくのか、その時の愛華には分かっていなかったような気がする。
人と関わるのが嫌になったのは、足が攣り始めてからだというのも皮肉なものだった。別に足が攣るようになってから人と関わらなくなったわけではないような気がする。やはりどこかのタイミングで人が嫌いになったからだ。それが足が攣るという現象と関わっているなどとは考えにくかった。
――そういえば、夢の中で誰かが出てくるようになったのはいつ頃のことだったのかしら?
という思いに愛華は耽っていた。
子供の頃から、夢の中には誰も出てこなかったことで、
「夢って誰も出てこないもの」
という認識をずっと持っていた。
一度クラスメイトの誰かが、自分の友達に、
「あなた、昨日私の夢に出てきたわよ」
と言っているのが耳に入ってきた。
その言葉には悪意はなく、皮肉っぽい言い方だったので、言われた方も別に怒っている様子もなく、
「そうなの? じゃあ、出演料でも貰おうかしら?」
と、皮肉には皮肉で返していた。
愛華はその話を聞きながら、
――何言ってるのよ。自分の夢に誰かが出てくるなんてありえないじゃない。それって本当に夢なのかしら――
と思いながら聞いていたが、言われた相手も否定するわけでもなく、会話を合わせているのを聞いていると、
――あれ?
と愛華は感じた。
――自分の夢に誰かが出てくるなんてことあるのかしら?
自分の夢に誰も出てきたことがないことで、
「夢とは自分だけの世界なんだわ」
という確信が、思い込みに過ぎなかったのではないかと思い知らされた気がした。
そのことを誰かに聞いてみる気にはなれなかった。聞いてはいけないことだという認識だったからである。