心理の裏側
その人は千春の前から音も立てずに立ち去る。千春は立ち去っていることに気付きながらも、知らぬふりをして、その様子を見送っている。その時の千春の顔は、これ以上ないというほどに冷静な表情をしている。
顔色はすこぶる悪い。しかし、体調が悪い時とは違う顔色だ。
「まるで死人のような表情だわ。気持ち悪い」
と言っていた人の声を聞いたことがあったが、さすがに愛華もその時は、その通りだと思ったのだ。
千春の店は、決して派手な店ではなかった。千春の性格を表しているかのような店で、きっとこの店を、
「隠れ家」
として使っている人もいることだろう。
むしろそんな人がほとんどなのかも知れない。愛華もそんな店が好きになるだろうと思っていることも、千春と気が合う理由の一つとして考えた。もっとも、千春の母親がスナックに勤めていることを知ってからのことだったが、千春がそのことを愛華に話したのも必然だったのかも知れない。
そんな隠れ家のような店は、昼間は喫茶店でもやっているのではないかと思うほどに落ち着いた佇まいをしていた。カウンター席だけではなく、奥にはいくつかテーブル席もあり、テーブル席の横に、油絵が飾られていた。
愛華はそれを見て、若干の違和感を抱いた。
――何に違和感を覚えたのかしら?
こんな雰囲気の店のテーブル席の横に、油絵があるという光景はどこにでもあるもので、却って何もなければ殺風景に感じるだろう。
しかし、この違和感は、殺風景をさらに増幅させるもので、寒気さえ感じさせるものだった。
絵が不気味だというわけではない。普通の風景画なのだが、何か怖さがあったのだ。
――何なのこの感覚――
愛華は、ゾッとしたが、そっちばかりを見るわけにはいかないと思った。
愛華が店内を見渡そうとすると、千春は寂しそうな顔になる。やめてほしいという気持ちが表情に表れているが、それは咎めるような視線ではなく、哀願に近いものだった。
――もし、千春のこんな顔がなかったら、こんなにゾッとした気持ちになったかしら?
と感じたが、それでも一度気になってしまったものを無視することはできなかった。
後ろから千春の情けなさそうな視線を感じながら、絵に目は行ってしまっていた。
だが、よく見ると、その中の一枚に見覚えがある気がした。
その絵はお世辞にもうまい絵とは言えなかった。完全に素人の絵であり、ずっと見続けるほどの価値はないと思えた。
しかも、その絵はまだ未完成のようだった。完全に出来上がっていない絵を飾っているのには何か理由があるのかと思ったが、よくよく考えると、また違った意味でその絵を見ている自分を感じるのだった。
――この絵が完成していれば、どんな絵になっているのかしら?
と思った。
その絵の完成した姿は、愛華には容易に想像できた。
――この絵が完成した絵であれば、この場にはふさわしくない――
と思えたのだ。
なぜなら、完成した絵よりも未完成の方が精度として完成されているような気がしたからだ。
――完成されていない絵の方が完成されたものに見えるなんて――
と感じたが、それもひょっとすると、一つの画法なのかも知れないと思い、絵画の奥深さを感じたような気がした。
「あの絵」
千春が後ろから声を掛けてきた。
その時にはもう、情けなさそうな視線はなくなっていて、その代わり、覚悟を決めたかのような表情になったのに気がついた。
「何?」
愛華は千春の方を振り返り、千春が何を言うのかドキドキしながら、恐る恐る尋ねてみた。
「あの絵はね。私が以前に描いたものなんです。途中まで描いたんだけど、急にそれ以上を描けなくなって、それでも、この絵を見た人から、ここに飾ればいいって言ってもらったんです」
と言った。
「それは誰からなの?」
と愛華が聞くと、
「お母さん」
と答えた。
千春は話を続けた。
「お母さんがいうのは、お母さんも子供の頃に絵をよく描いていて、自分も同じような絵を描いたことがあったんですって、お母さんは完成させたんだけど、その絵の出来が最悪で、自分の中で嫌悪しか感じられなかったので、その怒りをキャンバスにぶつけるように、八つ裂きにして葬ったようなの。でも、私の未完成の絵を見て、自分が絵を完成させてしまったことを後悔したみたい。だから、この店で公開しなさいって言ってくれたの。私もこの絵には何か思い入れのようなものがあって、このまま隠し続けるのも嫌だったので、ここで飾ることにしたのよね。なかなかこの絵に興味を示す人はいなかったんだけど、まさか最初にこの絵に興味を持つのが愛華だったとはね。でも、今思えばそれも室全な気がするわ。気付いてくれたのが愛華で私は嬉しいの。ありがとうって言いたい気分になっているわ」
と言ってくれた。
その話を聞いて、愛華は、千春と母親が切っても切り離せない関係にあることを改めて感じたが、すでに千春が母親の呪縛からは抜けているように思えた。そんなことを考えていると、愛華は目を覚ましたようで、目の前から、千春の店は消えていた。
「千春のお母さんのお店の話を聞いて、こんな夢を見たのかしら?」
と感じた。
千春が絵に造詣が深いことは分かっていたが、まさか夢に出てくるとは思わなかった。しかも近未来であればさることながら、お互いに大人になってからのことであり、場所がスナックというのも、不思議な気がした。やはり夢というのは、愛華の想像を絶するものであるに違いないと思った。
その絵は、どこかヨーロッパのお城のようだった。まるで湖畔の森の中に浮かび立つその建物は、まるでロケットのように、空を突いて見えていた。一瞬だけ遠くに見えたかと思えば、様子は斜め上から城の中心部を眺めているかのように見えた。
全体が見えたような気がしたのは、絵の端の方にあるかすかに見える川が、目に入ったからである。一瞬だけでも気になってしまったことで、全体のバランスが頭の中に浮かんできて、目の前の絵に描かれているという錯覚を起こしたのかも知れない。
すぐに絵は実際に描かれている角度に変わり、愛華にとっての絵の中心部は、ロケットの先端近くにある細長い円筒形部分に変わってきた。
その部分をよく見ていると、そこにはいくつかの窓があった。窓と言っても開け閉めできるものではなく、吹き流しになっている下が正方形で上部が半円になった窓であった。
この窓の形にはまったく違和感がなかった。こんなお城にこそふさわしい窓として、言葉で説明しなくても、
「西洋の城の窓」
と言えば、一目瞭然で理解してもらえるようなものである。
その窓をよく見ていると、そこからこちらを覗いている人がいた。思わず目をしょぼしょぼとさせて、目をこすってもみたが、確かにそこに誰かがこちらを覗いている姿が見て取れた。
――誰なんだろう?
と思うと、意識はそこから離れてくれない。
その人の正体が分からなければ、気が気ではないとはこのことだ。その人が女性であることは分かっている。そう思うと、愛華は何か余計な想像をしてしまったようで、背中にゾクッとした寒気を感じた。