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心理の裏側

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「切っても切り離せないもの」
 として考えるようになっていた。
 プログレの画像を見ていると、
「その時代の人の発想が、その時代から過去に向かって目が向いているようにしか思えない」
 と愛華がいうと、
「僕もそう思う、元々プログレという音楽は、いろいろと多彩なジャンルのある音楽を融合させた前衛音楽と言えるのではないかと思うんだよね。基本はジャズやクラシックなんだけど、ロックやポップスを取り入れて、さらには、その国の伝統的な音楽を取り入れた曲も結構ある。そう思うと、時系列も現代を基盤として、過去や未来を融合させた発想であってもいいと思うんだ。でも未来に関しては確定的なものはない。過去であれば、確定されているものなので、幻想を演出するには十分に思える。そう考えると、プログレは時系列を超越した発想を思い浮かべる時にBGMとしては最高ではないのかな?」
 と隼人は言った。
 隼人の話はいちいちもっともだと思った。
 愛華はその話を聞きながら、目は彼が集めてくれたプログレのジャケット画像に向けられた。
「この画像を見ていると、確かに時系列なんて超越しているように見えるわね。アートとして見ることは狭い世界に入ってしまいそうに思うくらいだわ」
 と愛華がいうと、
「そんなことはないさ。アートという芸術的なジャンルは、そもそも時系列を調節しているんじゃないかって思うんだよね。絵画というと、目の前に見えているものを忠実に描くというものもあれば、まったくの想像物を、創造物として製作するというものもあるでしょう? 僕はそのどちらもアートというのは遊び部分を含めた汎用性のあるジャンルだって思っているんだよ」
 隼人の話を聞いていると、自分の中で考えていた思いが、次第に膨れ上がっていくのを感じた。
 水分を含んでいないものに対して、スポイトで水を垂らす感覚で、次第に潤っていくのを感じる。
 しかし潤ってはいるが、まったく水っ気のないところに水が含まれているのに、思った以上に容積が増えているという感覚はない。
 膨れるかわりに、ふやけている感覚になってくるのを感じると、まるで脳の画像を見ているような気がした。
――そういえば、プログレのジャケットの中に、脳の画像を思わせるアートがあったわね――
 と感じた。
 その絵は、人体の解剖図というイメージよりも、まるでロボットの断面図に近いものがあった。だが、愛華にはロボットの断面図と見るよりも、人間の解剖図を見ている方が、音楽的にしっくりくるように感じたのだが、その思いは、
「過去を表現することで、未来を創造しているのかも知れない」
 と思わせた。
 愛華自身が確定的なものを感じさせないものと、確定的なものを比較した時に、どうしても確定的なものが勝ってしまうことで未来を見ることができない思いから、過去を誘発された思いを抱くのだ。
 だが、愛華は未来を創造できないとは思っていない。ただ、確定的な発想が頭の中にないことで、今は発想できないと思っているだけで、
「大人になればある程度未来を見ることができるような気がする」
 と感じた。
 それは、大人になることで、たぶん、大人になるための成長が終わり、肉体的にも精神的にも飽和状態になることは分かっている。肉体的には衰退がありうるが、精神的な衰退はないと思っている。
 そのため、きっと頂点が見えてくるのだろうと思うのだが、頂点が見えてくると、それまで見えてこなかった未来が見えるようになると思っている。
 つまり、
「世の中の未来への創造は、あくまでも自分の未来を見ることができるかということで決まるのでないか」
 と愛華は感じるようになったのだ。
 愛華は未来が見えてきた自分に対して、
「大人になりかかっているのかも知れないわ」
 と感じた。
 しかし、その思いは手放しで喜べるものではなく、不安が付きまとっているものであった。
 愛華が絵画を描くようになったのは、プログレのジャケットを見たのが最初だったが、元々、
「絵を描いてみたい」
 という思いもあった。
 音楽を志そうとして、なかなかうまくいかないということで、絵画に興味を持ったと思っていたが、そうではなく、音楽への思いと絵画への思いが似ていることに気付いたからだ。
 音楽をするのも、基本は作曲だから、
「何もないところからの製作」
 という意味では絵画と似ている気がした。
 絵画も、真っ白なキャンバスであったり、スケッチブックに自分が加筆することから始まる。ただ、絵画の場合は被写体があって、模倣するのが絵画であった。
 小学生の頃から、絵を描くことが苦手で、図工の時間は苦痛でしかなかった。工作は嫌いではなかったが、絵画が嫌いだっただけに、総合的に考えて、図工の時間は苦痛でしかないという思いが強かった。
 小学生の頃は音楽にしても図工にしても、芸術的な時間は苦痛だった。中学に入っても好きにはなれなかったが、思春期になりかかった頃に仲良くなった人の影響を受けたということは否定できない。
 その子の名前は千春という。
 千春は、普段から一人でいるタイプで目立つことはなかった。端の方にいるから目立たないわけではなく、比較的真ん中にいても、その存在は人から意識されなかった。
――ひょっとすると、天性の目立たないタイプなのかも知れない――
 人にはそれぞれ性分というのがあって、どんなに目立とうと思っても、影が薄い人もいるだろう。
 まるで石ころのような存在と言えるのではないだろうか。
 石ころは、目の前にあっても、その存在を意識されることはない。河原のように石ころが無造作に放り出されている場所であれば、
「そのうちの一つを誰が意識するというのか」
 と言えるのだろうが、コンクリートを敷き詰めてある場所で、場違いに思える場所であっても、石ころであれば目立つことはない。
 それが、
「石ころの石ころであるゆえん」
 とでもいうのであろうか、愛華は石ころというのは、他のものにはない、別の意味でのオーラを感じる。
 いわゆる、
「マイナスオーラ」
 とでもいうのであろうか、これは負のオーラとは違う。
 負のオーラというのは、マイナスイメージというよりも悪いことの前兆のような雰囲気があり、放っておくのが怖い気がするくらいのものだ。
 だが、マイナスイメージは、存在感のマイナスであり、誰からも気づかれないものの代表として表現するものだと愛華は思った、
 もっとも、そんな表現をするのは愛華だけなのかも知れないが、同じような発想をする人は探せば見つかりそうな気もするくらいだった。
 千春は最初、そんな石ころのようなイメージだと思っていたが、実際にはそうではなかった。確かにまわりを意識させない雰囲気を醸し出していたが、それが無意識のうちであることは間違いない。逆に無意識だからこそ、石ころになりきれない何かがあるように思えた。
作品名:心理の裏側 作家名:森本晃次