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心理の裏側

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「愛華という女性は、自分のことをよく分かっているくせに、人に言われたり、指摘されるような態度を取られなければ、自分から行動を起こすことはない」
 と思っている。
 愛華の場合は、さらに自分のことを分かっているにもかかわらず、それを自ら意識している様子もない。それは表に出さないだけではなく、本当に意識していないようだ、内に籠った考え方をしていると言えば、イメージとして、
「自分の考えから逃げている」
 と言えるのかも知れないが、愛華に場合は少し違っている。
 プログレという音楽を最初は幻想的な音楽だけだと思っていたが、聴いてみれば、想像を絶するような意味不明と思える音楽が多かった。半世紀前のこととはいえ、全世界で一世を風靡したというのだから、それだけ世界的に受け入れられた音楽であり、さらに今とはまったく違う世界が、そこには繰り広げられていたということだけは理解できる気がする。
 ただ、その世界がどのようなものなのかということを想像することはできない。愛華はプログレを聴くようになってから、近代史の勉強をするようになった。明治の後半くらいから大東亜戦争の終わる頃までを本で読んだりしていたのだ。
 クラスメイトには、そんな素振りを見せることはなかったが、隼人とはよくその時代の話をするようになった。
 愛華がこの時代を好きになったのは、今まで学校で習ってきたことから頭の中にインプットされた日本を取り巻く世界情勢というものが、まったく違っていることに気付かされたことはセンセーショナルな発見となったのだ。
 それは、それまで知らなかったプログレッシブロックというジャンルを古いにも関わらず、当時としては前衛音楽として最先端だったということを思いながら聴くことで、新鮮さが今でも最先端ではないかと思わせることで、新たな発見が実は根底にある魅力であることに気付かされるということであろう。
 愛華は歴史の本を読んでいると、
「勉強をしている」
 という意識を持つことはなかった。
 普通に小説を読んでいるような感覚になったのは、歴史上で事実関係が違和感なく結びついているからである。
 中には計算された策略も含まれていて、それは事前な工作が功を奏しているということを示していることに繋がる。今でいうミステリーに近いものがあるのだろうが、今の社会はミステリーでは決してない。時代が違うのだから当然なのだろうが、モラルや根底にある精神的支柱が違っているのだから当たり前のことである。
 イデオロギーというものを考えたことはないが、過去の時代、しかも極近の過去を歴史で勉強するということは、
「イデオロギーの追求」
 に繋がるものもあるのだろう。
 文学的には大正時代後半くらいから、昭和初期くらいに造詣の深さを感じた。
 その時代は、大正ロマンと呼ばれる時代、モダンボーイ、モダンガールという流行りを経て、時代は暗黒の時代を迎えるようになる。
 その最初が、関東大震災ではなかっただろうか。
 地震によって首都は崩壊し、街には焦土の臭いと、荒廃した街並み、そこに復興の足音が微妙に聞こえるという時代。さらに世界的に襲ってくる恐慌、
「激動の時代」
 が昭和初期であり、そんな時代を描く小説も、ロマンを求めるもの、さらには荒廃した世界に人間の隠れていた陰湿な部分が浮かび上がってくるような世界観を持った作品が存在したりした。
 その時代の検閲がどれほどのものだったのかということは分からないが、当時としても発行には検閲が入るものも少なくはなかっただろう。特に軍国主義、挙国一致の世の中になってくると、余計な感情は許さなかったに違いないからだ。
 それなのに、どうして今そんな小説が残っているのか、水面下で発表できない小説を保存するような仕組みができていたのか、愛華には分からなかった。
 それが今の世の中に出回っているというのもおかしなことだ。
 時代としては、新しい作品にはありえないことにもかかわらず、過去の世界観として発売され、購入する人もそんなにはいないだろうが、販売されているということは、それだけ需要もあるのだろう。
 ただ、普通の本屋で販売されているものではないようで、見つけたのは図書館だった。隼人がいうには、
「これは今の時代で売っているものではないですよ」
 と言われた。
「そうなんですか?」
「いくら表現の自由があるとはいえ、さすがに今の世の中では売れるものではないですからね」
 と言われた。
 自分の思い過ごしであることに恥ずかしくもあったが、最初から分かっていたことだけに、別に驚きはなかった。
 愛華は結構自分が最初に感じたことを、確定的なこととして思い込むことがあった。この本についても、思い込みがあり、思い込みがあったおかげで、将来忘れることのないような印象的な作品であることを気付かせた。
 そんな作品が、愛華に新しいジャンルを開拓させることになる。
 最初は大正後期から昭和初期の激動の時代にここまで興味を持つとは思っていなかった。そこにはプログレの音楽が影響していることに気が付くまでには、それほど時間もかからなかった。
 時代的には昭和初期と言っても大東亜戦争終結の時代なので、二十世紀前半である。しかしプログレの時代は、六十年代後半から七十年代前半という年代的には二十年以上も離れた、いわゆる四半世紀は離れた時代である。
 愛華は自分なりに考えがあった。
「プログレッシブロックの流行りは、戦後の平和ブームの中で、余裕が生まれてきた時代が、平和の飽和状態に陥ったことで、新たな芸術の出現を誰もが待ち望むようになった時に現れた『必然の文化』ではないだろうか」
 というものであった。
 飽和状態という考えは、愛華の中で今までに結構あったような気がする。
 さらに極近の時代の歴史を垣間見ると、特にバブルという時代が弾けてからというものも一種の激動の時代であり、そんな時代にはある程度の飽和状態が何度かあり、そこに毎度何らかの新しい文化が生まれてきたのではないかと思うようになった。
 その間隔が愛華には短いものに感じられたが、大正後期から昭和初期にかけての激動の時代を本で読んだりすると、間隔的にはそこまで短いというわけではないが、激動の度合いは今とは比較にならないほどの溝が感じられた。
 まったく違う時代を想像しているのだから、そこにはかなりの贔屓目が存在しているのは当たり前ではないかと思うのだが、愛華にとって、
「時代の流れを時系列で捉えることができない時代が存在するのではないか」
 と感じさせるものが頭を巡ったのだ。
 それが大正後期から昭和初期の激動の時代なのかどうか、確定的なことをいう自信はなかったが、
「時系列がこれほどハッキリとした時代もない」
 と言えるのだが、時系列を度返しして考えてみることもできるのではないかと思ういう妄想を抱かせたのは、プログレの音楽なのではないかと思えた。
 愛華は、大正後期から昭和初期の文献や小説を読む時、プログレを聴くようになった。本を読むようになったきっかけが別にプログレに興味を持ったからではないということは分かり切っていることではあるが、いつのまにか、この二つは、
作品名:心理の裏側 作家名:森本晃次