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心理の裏側

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 などという考えを真剣に考える年でもなく、まだ子供だという意識の中に、
「年齢的な意味ではない大人の部分が私にはあるのかしら?」
 ということを考えた方がよほど思春期の発想としては健全だと思っていた。
 だが、鏡を見ていると、次第に自分ではないという意識が芽生えてきた。そこに写っているのは自分以外の誰であるはずもない。それなのに何かが自分と違うと感じるのは、自分の中で許せない部分、いわゆる譲れない部分があるということなのだろうか。
 鏡の中の自分に語り掛けるような痛いマネはしたくなかったが、思わず語り掛けている自分がいるのにも気づいた。
 何を語り掛けているのか、その時々で違うのだが、我に返ってしまうと、何かを語り掛けていたという以外のことは意識の中にはなかった。
 覚えていないだけだということなのかも知れないが、覚えていないということはその時間、意識が飛んでいたということにでもなるのであろうか。そのあたりの意識はあるのとないのでは紙一重のような気がする。遠いように思えても、背中合わせだということは往々にしてあることなのだろう。
 鏡を見ていて、目の前に写っている人が自分と同じ動きをするはずだという意識はない。それが当たり前だと思っているからだ。当たり前だと思っていることは、意識すらしないことが多い。それはまるで目の前に見えているのに、あることを当たり前だと思うことで、存在していて見えているのに、視界に入っていないかのような石ころのようである。
 愛華は、自分が石ころのような存在だといつも感じているような気がする。小学生の低学年の頃は、先生からもクラスメイトとの輪の中にいても、その存在を意識されていないこともあった。
「お前、いたのか?」
 その口調はなるべく平常心を装ったような口ぶりであったが、驚きを隠そうとすればするほど目立つということを意識していないかのようだった。小学校の低学年の愛華にその時、そこまで意識できていたのかどうかは定かではないが、今思い出すと、その時に意識していたように思えていた。
 鏡に写っている自分を見ると、時々、その後ろに自分の意識していない何かが写ってはいないかと気になってしまうことがあった。
 愛華はホラーはあまり好きではないが、テレビでやっていたバラエティー番組で、ホラー映画のバラエティ用にパロデイとして作った映像を見たことがあったが、その時、鏡の後ろに風船を持ったピエロが写っていた。海外のホラーのパロディのようだったが、愛華には印象深いものだった。
 ピエロ、そしてそのピエロが持っている風船、そのどちらも怖かった。それぞれ単独で存在していたとしても、恐ろしいと感じるだろう。不思議なことにその両方が揃った方が愛華には恐怖が和らいだような気がしたのだったが、それはバラエティだと思っているからなのかも知れないし、それだけではないのかも知れない。
 今までサーカスなどを見に行ったことがなかったので、ピエロをほとんど見たことがなかった。だが、テレビに映ったピエロを見た時、
「最近、どこかで見たことがあったような気がしたわ」
 と感じた。
 思い出そうとしても、記憶の引き出しがまともに開いてくれない。
「曖昧な記憶ほど気持ちが悪いことはない」
 と感じたが、その思いはその時が初めてというわけではなかった。
 ピエロの何が怖いのか、考えてみたことがあった。
「あの顔が怖いのか?」
 表情から、感情を読み解くことができない。
 いつも笑っているように見えるが、笑っているとは到底思えない。その表情の奥に隠された素顔を想像するのも怖い気がする。顔を隠すのだから、何か人に表情を見られたくないから隠すのだ。その意図がハッキリとしているのであれば、ピエロに対する恐怖はその意図から生まれるのではないだろうか。
 耳近くまで裂けている口、昭和の昔に、
「口裂け女」
 というのが流行ったという話を聞いたことがあったが、いつどのようなシチュエーションで出てきた話なのか覚えていない。
 口裂け女という言葉からイメージを膨らませて。ピエロに行き着いたことは覚えているが、自分にそんなにも飛躍した発想があろうとは思ってもいなかった。
 ピエロが持っている風船へのイメージは、鏡に写ったピエロが持っているイメージではなく、別の映像のイメージだった。
 そのピエロは、ホラー映画に出てきたピエロとは別で、ドラマの中の風景に溶け込んだようなエキストラとしてのピエロだった。
 商店街などにいるピエロで、今の時代にはなかなか見かけることはないが、テレビの画面に映し出された宣伝マンとしてのピエロに、その時の愛華は違和感を一切感じることはなかった。
 昭和の時代であれば、プラカードを持って、宣伝用にピエロの恰好をさせたアルバイトを雇うなど普通だったのだろうが、今の時代には派手すぎてそぐわない。そんなことは分かっているのに、テレビの中では最初から時代設定が昭和だということを表していたので、別に違和感を持つこともなかったのだ。
 それでも、昭和の時代を知るはずのない愛華が、どうしてピエロの姿に違和感がなかったのか、
「前にもどこかで見たことがあるような」
 というデジャブを感じたわけでもなかったはずだ。
 愛華はそのことを感じると、そのどこかというのが、
「夢の中ではなかったか」
 という意識を持った。
 そして、テレビのイメージがそのまま夢で見たであろうその場面にシンクロしてしまったかのようになり、夢とテレビ画面の記憶が、意識を錯綜させているかのように感じられた。
 デジャブを感じたとすれば、それはそれで不可思議なことであるが、デジャブを感じたわけでもないのに、テレビ画面を通してであれば違和感がないというのも不可思議ではないだろうか。
 そういえば、公園で出会ったお姉さん、あの人の顔を思い出すことはできないのだが、表情のイメージだけは何となく覚えている。
「何となく」
 というのは、言葉で言い表すのが難しいという意味で、覚えているには覚えているが、曖昧なのは間違いない。
 それなのに、お姉さんが何を考えていたのかということは、その時分かっていたような気がする。今となって思い出すことは難しいが、分かっていたという事実は、その時は漠然と感じただけだったが、あらたまって思い出すと、そこにお姉さんへの記憶が残っている証拠なのではないかと思えた。
 ピエロと風船という結びつきは、別におかしなものだとは思わない。ピエロが風船を持っているのは当たり前のように思うし、ピエロが持っているものはプラカードか風船だという意識があるのも分かっている。ただ、違和感を感じたのは、そこが部屋の中だということであった。表でピエロが風船を持っているのであれば、別に問題はないのだが、鏡に写るという限られた空間の中で、ピエロと風船は存在していた。
 最初は漠然とその存在を意識しただけだったので、遠くの方からそっと見ているようにしか感じなかった。だが、少ししてもう一度意識すると、今度はすぐ後ろにまでピエロが迫ってきているのに気付いたのだ。
「わっ」
 と、思わず声を出した気がする。
作品名:心理の裏側 作家名:森本晃次