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心理の裏側

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「未来にも同じように感じた時、その時はきっと理解できると思う」
 と、未来に感じることは意識していたが、その時は理解できると思ったのは、その未来が近未来ではなく、さらなる未来を予感していたのだとすれば、その時にも、
「将来、何度も感じることなんだろうな」
 と思っていたに違いない。
 愛華は、小学生の頃、公園に佇んでいる時、何度となく、将来について考えていたような気がする。
 ボーっとしている時間が多かったように思うのは、身体が感じた気だるさによるものであったが、それは夕方に存在する夕凪という特別な時間帯が何か特殊な意識を作り出し、それまでの時間とは一線を画した感覚に陥り、風を感じることで我に返ってしまう状況を感じるからだと思うようになった。
 思春期になって過去のことをよく思い出すようになっていたが、それは過去を思い起こすことで顧みる自分を発見したいからではなく、
「思い出すべくして思い出したこと」
 という意識で、そこに今の自分を顧みるような何かがあるわけではないと思っている。
 過去を思い出すということは、その時に同時に感じたことが、その時に初めて感じたことではなく、思い出した時期に最初に感じたことだということを警鐘しているのだということになるのではないだろうか。
 思春期になってから、小学生の頃に諦めた音楽というものを再度意識したのは、一緒に思い出した公園で佇んでいた時に感じた、
「左右で別々のことを感じることができない」
 ということを、詳細に思い出したことと関係があるに違いない。
 愛華は、
「左右で同時に感じることができるが、それを単独で感じようとした時、感じることができない」
 という、一見矛盾した感覚が、実は自分の錯覚であり、真理だったのだと思うと、本当の意識がどちらなのか、思春期になった今では、理解できるような気もしてきた。
 子供の頃に感じたのは、ボーっとした感覚の中でだったから分からなかったのか、それとも、感じることができたのは、ボーっとした感覚だったからなのかのどちらかを考えていた。
 その一つの答えが、他の疑問や違和感を解決してくれるかも知れないと思うのは、
「思春期になった今だからではないか」
 と感じたのだ。
 愛華が公園で佇んでいた時のことをどうして思い出したのかというと、
「あの時に出会ったお姉さん、どこかで見たことがあったような」
 という思いが頭をよぎったからだ。
 公園に佇んでいたイメージが最初に浮かんだからではなく、お姉さんの顔が頭をよぎったことから感じたことだった。
 だが、あのお姉さんの顔を見たことがあったという感覚は、明らかな間違いであった。それは信憑性などという言葉ではなく、ハッキリとした事実だと言ってのいいだろう。似たような顔は見たかも知れないが、少なくとも意識に残る顔は今までにはなかった。特に人の顔を覚えるのが絶望的に苦手な愛華には、事実と言っても過言ではないと言ってもいいだろう。
 人の顔を覚えられないのは、思春期になるまでは誰にでもあることだと思っていた。だからこそ、
「大人になれば人の顔を覚えることができるようになるんだわ」
 と思っていた。
 少なくとも思春期まではそう思っていて、今後はどうなのか分からないが、今の時点で子供の頃と変わっていないのを思うと、
「たぶん、覚えることはできないんだろうな」
 と思うようになっていた。
 思春期になってから、夕方の公園を思い出したのは、音楽への造詣が深まってきた証拠ではないだろうか。
「左右で別々のことが同時にできなければ、音楽はできない」
 だから、自分は音楽をできないと思っていたのだが、それでも音楽をしてみたいという欲が出てきたことで、それまでの自分の考えを否定する何かを模索していたのかも知れない。
 だが、実際には左右で別々のことを感じることができないわけではなく、そのどちらかに集中した時に感じることができないということに気付いていたはずなのに今になって再認識したということは、本当に意識していたのかどうか、怪しいものだと感じられる。
「あの時に見たお姉さんの顔はすでに忘れてしまっている」
 と、愛華は思っていた。
 よく考えてみると、愛華は本当に最初から人の顔を覚えるのが苦手だったのだろうか?
 幼少の頃の記憶を思い出すと、自分ではそんな意識はなかった気がする。幼少の頃に人の顔を覚えるという意識がある方がすごいというのも当たり前だが、愛華は幼少の頃には覚えていられたと思うと、
「では一体いくつから、人の顔を覚えることができなくなったのだろう?」
 と思うようになった。
 その答えはこのお姉さんにあるような気がしていた。
 お姉さんの顔を思い出せないのだが、もう一度見れば、ハッキリと思い出せる気がする。しかも、それはその時にどのような会話があったのか、細部まで思い出せそうな気がするのだ。
 ということは、今記憶の中にあるそのお姉さんとの会話の場面は一部でしかないということを認識しているのだ。思い出すことさえできれば、今人の顔を覚えられないということに悩んでいる原因がどこにあるのか、ハッキリするに違いない。
 ただ、お姉さんの顔を思い出せないまでも、あの時から見て、近い将来、そのお姉さんが自分に深く関わってくることが分かっていたような気がする。しかし、それを突き詰めてしまうと、それまで感じたことのない矛盾にぶち当たる気がしたのだ。矛盾は彼女の顔を思い出すことだというベタなことであり、何が何に対して矛盾しているのかという具体的なことまでは分かっていなかった。
「お姉さんの顔を思い出すことができるのだとすれば、今のような気がする」
 と思っていたが、そこに根拠は何もなかったが、信憑性がないわけではなかった。
 根拠がないのに、信憑性だけがあるということを感じたことはそれまでには一度もなかったが、そんな状態に陥った時、
「深入りしてはいけない」
 と、自分に言い聞かせている自分が別にいるような気がしていた。
 その時に感じたお姉さんの年齢が、今の自分くらいだということも気になるところであった。
「あの頃だから、年上に見えたのであって、同年代の自分が彼女を見れば、あの時のように年上として意識できるのだろうか?」
 と感じた。
 年上だから、お姉さんだと思ったのであって、もし、愛華が彼女をお姉さんだという意識を持ったままずっといたのだとすれば、もし今あの時のままの彼女が現れたとしても、愛華には彼女がその時のお姉さんだったとは気づかないに違いない。
「歳はお互いに取っていくものだから、絶対に交わることのない平行線でしかないはずなのよ」
 という話を聞いたことがあったが、至極当然の話である。
 もし彼女が誰かとダブって見えたのだとすれば、錯覚であり、自分に錯覚をもたらした原因も分かるのではないかと考えられる。
「私って、本当はいくつなんだろう?」
 いまさらのように感じたが、それは鏡を見て感じた初めてのことだったのだ。
 今まで鏡を見ることはほとんどなかった。むろん、鏡を見て自分の年齢に思いを馳せることはご法度だった。
 実際に愛華は自分の年齢を意識したことはなかった。
「年を取った」
作品名:心理の裏側 作家名:森本晃次