心理の裏側
想像していた時間は自分の時間であって自分の時間ではない。本当であれば、一番自分らしい時間のはずなのに、後から思い返すと想像以上に時間の感覚が違っていることを、恐ろしく感じるほどだった。
それこそ、
「夢を見ているようだ」
と感じても無理のないことのように感じる。
愛華にとって何かを考えている時は、いつも想像というよりも、妄想に近いものであることを意識していた。
まだ小学生の愛華は、そこまで夢に対していろいろな発想を身に着けているわけではないが、中学、高校になって考えた発想の基礎を築いた時期であることは間違いない。逆にいうと、小学生の頃がなければ、中学、高校の発想もなかったわけで、小学生の頃だからこそできた妄想もあったはずだ。
中学生になってから変わったことといえば、愛華にも他の人と同様に思春期を迎えたということである。思春期になると、それまで感じたことのない感情がたくさん芽生えた時期だった。特に感じたのは、羞恥心であった。
小学生の頃でも、恥ずかしいという意識はあったが、中学生のいわゆる思春期になってから感じる恥ずかしさとは明らかに違っていた。最初はその意味がよく分かっていなかったが、分かってみると、納得のいくことであった。
「男の子を男性として見るようになったからだわ」
という思いに納得したのだ。
男の子というと、女の子を意識しているようで、実は意識していない。女の子も意識していないようで、男の子から見れば、思っているよりも、意識されていたようだった。
だが、男の子はそれを隠そうとする。それを女の子は素直に感じ、最初から意識していないような気がしていたのだ。
ただ、それは愛華だけのことだったのかも知れない。実際に男の子を意識することがなかったので、意識する以前の問題だったのだ。それでも中学生になって思春期に入ると、男の子の視線を感じるようになった。それも、恥ずかしいと感じる視線である、
「生々しい」
というのを感じたのは、この時が最初だったような気がする。
「頭のてっぺんから、足の先まで見られている」
という思いがあった。
しかも、その視線には、「舐めるような」という表現がピッタリだった。服を着ているのに、まるで裸にされるかのような視線を、恥ずかしく感じない方がおかしいと思うほどだった。
「この恥ずかしさが羞恥心というんだわ」
と感じると、羞恥心が大人への階段のような気がして、恥ずかしさがくすぐったいような感覚になってくるのを感じた。
夢というと、忘れてしまいたいと思っているはずなのに、忘れることができない夢を小学生の頃に見た。あまりにもリアルだったので、
「夢だと思っているけど、本当のことだったんじゃないかしら?」
とさえ思うことであり、それがもし現実のことであれば、
――この思いは、誰にも言えるわけのないことで、死ぬまで口外できないことなんだわ――
と思えることだった。
それなのに、中学に入ってから友達になった女の子に話していた。どうしてその話をしたのかといっても、その時の心境を後から思い起こしても、想像することは難しかった。それなりに何かの信念なのか、覚悟のようなものがあったはずなのだが、思い返してみると、
「何となく」
だったように感じられて仕方がない。
話を聞いた女の子も、驚いて引いてしまうのではないかと思えたが、そんなことはなく、しかも、
「私にも同じような経験があったような気がするの」
というではないか。
――引かれてしまったらどうしよう――
と感じながらも、きっと覚悟を決めて話をしたことだと思っていただけに、拍子抜けしたというのか、ホッとした気分になったに違いなかった。
その時の心境、覚悟であったり、信念を思い出すことができないのは、そのホッとした思いがそれまでに感じていた思いを打ち消して余りあるものだったということであろう。
愛華はそれまでに自分の気持ちを表現することを考えたことはなかった。自分に言い聞かせたり、自分を納得させるために、自分の気持ちは表現するものだと思っていたので、それを他人に対して使うことは、
「もったいない」
とさえ感じていた。
それが小学生までの愛華だったが、中学に入ってもその思いに、さほどの変化はなかった。
成長期にある愛華にとって、過去のことは、
「成長するためのプロセスでしかない」
という思いがあり、思い出したとしても、今の自分を中心にしか考えられなかった。
これは、大人になってからも変わらなかったのだが、思春期の思いは大人になってからのものとは少し違っていたように思う。
公園で出会ったお姉さんの顔をじっと見ていると、初めて見たはずなのに、彼女の言っているように、前にも見たことがあると思うようになっていったが、その感情がどこから来ているのか不思議だった、
その頃の愛華には、
「デジャブ」
という発想はなかった。
「今まで一度も見たことがないはずなのに、どこかで見たことがあると思うような発想」
これをデジャブというが、これが初めて感じたデジャブだった。
デジャブという言葉を聞く前に感じた最初のデジャブだったが、この感情は、デジャブという言葉を聞くまでは、夢だとして片づけていた。
つまり、理屈で解明できないことや、自分を納得させることのできない出来事というのは、そのすべてが夢であるということで、解決しようという安易な考えであった。
別に、夢という発想に逃げているわけではないと思っていた。逆に、
「夢という発想は、こういう時のためにあるんじゃないかしら?」
と、夢というものの信憑性に結び付けようとする、ある意味都合のいい考えではなかったか。
夢から逃げることができないという発想は、中学生になってから感じるようになった。ひょっとすると、その発想が思春期への入り口の一つだったのではないかとも考える。
「思春期というのは、入り口があって、その入り口に達した時に、いくつかの要因があるような気がする。その要因を感じさせないのが思春期であって、そのおかげで入り口という発想を考えることもなく、すんなり入ることで、余計に思春期は神秘性を感じさせるのではないだろうか」
と、分析していた人もいた。
もっとも、それは思春期を抜けた時に感じた時であり、
「こんな発想ができるのは、自分が大人になっていない証拠だって思うの。思春期を抜けてすぐに大人になる人もいるけど、まだ大人になりきれない時期を過ごせるというのは、貴重な体験なんじゃないかって思うの」
と言っていたが、愛華はその言葉を大人になってからも忘れることはなかった。
愛華がデジャブを感じた時、何か違和感があったのだが、その違和感がどこから来るのか、意外と早く気が付いていた。
六時のクラシック音楽が終わるか終わらないかの時、最初に聞こえていた場所から、再度同じメロディが流れてきていたような気がしていた。公民館は近くにいくつも点在しているので、空気の乾いた時などの音が響く時は、町はずれの公民館の音まで聞こえてくることがある。一度終わったクラシックのメロディが、別の場所から最初から聞こえてくるのだから、面白いものだ。