短編集70(過去作品)
ただ、あの世と私が言っているのは、死者が最終的に天国か地獄に行くのであろうが、そこまでにワンクッションあって、待機している場所のことを言っている。行き場所を決めるのにも順序があるのだろう。そう思うとあの世がこの世と似ているとしても不思議ではない。
そんな中であの世ではすでに今までの記憶は抜かれているだろう。抜けれていないものがあるとすれば、それはあまりにも強いこの世での未練。未練が邪魔して、天国、地獄を決める場所に行きつくことができない。それを我々は、
「霊が彷徨っている」
と言っているのだ。
夢枕に母が立ったのは、記憶では三回だった。一度だけならまだしも、三回とは、さすがに何かあるような気がした。
私はそのことを誰にも言わず自分の胸の中に収めていた。言っても信じてもらえるはずもないし、言えるような相手がいるわけでもない。母が夢に出てきたのは、私に彼氏ができる前で、父から不倫相手がいたことを告白される前だった。母が夢枕に現れたことで運命が変わったのか、それとも、運命が変わってきたので、母が夢枕に現れたのかのどちらかであろう。
少なくとも、私が女子大生になった頃から、自分の人生が目まぐるしく変わっていくのを感じていた。
中学高校と、平凡すぎるくらいの生活で、元々雰囲気も暗かったので、目立たない生活や、性格が、ずっと続いていたのだ。
六年は長いようで短かった。何もなければ当然であり、ほとんど勉強に費やしていたように思う。
それでも入学できたのは平凡以下の学校で、つくづく自分が勉強にむいていないことに気付いた。いつも計算ばかりしていたので、自分が頭がいいという勘違いもあったのかも知れない。計算ばかりすることで、数学以外の勉強にはほとんど役に立たなかった。肝心の数学もすでに頭で計算できるところを超越していて、あまり成績がいいとは言えなかった。
私がスナックでアルバイトをしようと思ったのは、大学の勉強に少し飽きてきたところもあったからだ。中学、高校時代までのように勉強してきたことがそのまま成績になって結びついてくるのと違い、大学では実践に近い形の勉強が要求される。世間知らずの自分が少しでも世の中を知りたいと思うことがスナックのアルバイトに結びついたのだ。望まれているからとはいえ、甘えられるものではない。他の女の子とも仲良くしないといけないと最初は思ったものだった。
女子大生という言葉は、世の中では得する言葉のようだ。贔屓とまではいかないが、ありがたがられたり、時にはあがめられることもあるくらいだ。何よりも女性が一番明るいイメージをつけられるのが、女子大生という言葉の魔力であった。
委ねたる
相手に見せる姿には
自分を隠し託す想いを
スナックのアルバイトにも慣れてくると、大人の世界も見えてきたような気がする。学校や家庭とはまったく違う世界。そこには感情なるものがどこまで存在しているのか、私には分からなかった。
言葉は丁寧で、顔には笑顔を浮かべる。それを営業トークだとか、営業スマイルだなどと表現し、こちらの思惑に引き入れるための道具のようだ。
それは女性特有のもので、男性とはまた違う、相手を悦ばせることに重点を置いていて、営業会社の営業とは違う種類のものだ。
時には身体を使った営業などもあり、とても私にはまねのできない世界がそこにはあった。それこそ、
「世界が違うんだ」
と思っていたが、その思いが脆くも砕ける日が来るなど、思ってもみなかった。
女子大生だということを店の人は知っているが、客には話さないようにしていた。頼まれて入ったという気持ちがいまだに残っているのか、ママさんも頼んだ手前、それくらいは大目に見てくれた。それにあまりモテすぎるのも、問題だと思ったのかも知れない。他の女の子は皆三十代でいかにもホステスの雰囲気だが、女子大生だと分かると違う目で見られてしまうだろう、ただ若い女の子というだけで、十分であった。
最初こそ話題に困っていたが、最近では話題に困ることはない。常連ばかりの店なので、誰がどんな話題が好きなのかは次第に分かってきた。それを少しだけ勉強すれば済むことだった。
大学の勉強よりも結構楽しいかも知れない。いつも数字の羅列ばかりを考えていた私が今では、誰が何について興味があるかということと、それを自分も勉強するというシチュエーションに新鮮さを感じるのだった。
「本当に勉強っていろいろあるんですね」
ママさんにそう話すと、
「そうよ、学校では教えてくれないようなことを、ここのお客さんはそれぞれに持っている。ここで話題を作りたいと思って、お客さんの方も、しっかり勉強してから来ているのよ。ここの世界って、狭いようで広いのよね」
と、ママさんが話してくれた。いちいち頷きながら聞いていたが、ママさんの口から出てくる前にセリフが分かったかのように思えたのだった。
私は、大学を卒業したが、なかなか就職先が見つからず、一年浪人することになった。その時に、声を掛けてくれたのがママさんで、
「夜、また少し手伝ってくれるとありがたいんだけどな」
就職活動のために、四年生になる前にお店から暇をいただいていた。ママさんからは、
「頑張ってね」
と言われていたが、就職難には勝てずに、結局就職浪人になってしまった。それでも、給料は今までよりも出してくれるということもあり、私は承諾した、ずっと家にいても仕方がないと思ったからだ。
常連客も変わっていないということだし、私には安心だった。
「一年以上も経っちゃったので、お客さんとうまく行きますかね?」
新人なら新人のやり方もある。ベテランのやり方も分からなくもない。しかし、一年以上という中途半端な期間をどう埋めるかを心得ていないのが不安だった。
「今まで通りでいいのよ。皆の顔を見れば、きっとまるで昨日のことのように思い出すわよ。常連のお客さんも同じだと思うわ」
確かに久しぶりに会った友達でも、仲がいい人であればあるほど、まるで昨日のことのように思い出される。それを思うとママさんの言っていることもまんざらでもないような気がしてきた。
「それにね、さやかちゃんの場合は、大人になったところを見せれば、きっとウケると思うのよ。もう学生ではないんだから、その心構えでいれば、きっと心配はいらないと思うわ」
「それだといいんだけれど」
ママさんの話しにも一理あり、私の不安をある程度取り除いてくれたが、私の中で就職浪人という意識が引っかかっていた。
学生の頃であれば、純粋に社会勉強と思えたのだが、この春から社会人のOLとして新しい船出をする覚悟と期待を抱き続けてきたので、さすがに就職浪人はショックだった。一人でいればロクなことを考えないというのが、ママさんのお店でまた働いてみようという気持ちの表れであったが、一番の大きな理由はママさんが頼りがいがあって、頼もしいというところであった。
「私もあんな感じの女性になりたいな」
と思うことで、これも社会勉強だと思い、今から一年前とは違う、一年前に戻れるような気がしたのだった。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次