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短編集70(過去作品)

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 母の自殺は衝動的なものなのか、あるいは男性に洗脳でもされたのかとしか思えないのだ。衝動だったら誰かと一緒に死ぬということもしない気がする。死を目の前にして恐ろしくなったというのなら分かるが、それなら死を思いとどまりそうな気がするからだ。父に対して意地を張り続けた母とは思えない。
 父も同じことを考えていたようだ。普段から泣いたりしない父が号泣していたのを見た時、父の姿がウソには見えなかった。本当に涙を流していたのだ。父の背中を見ながら育った私には、父が実直な性格であることは分かっている。他の人から見れば、亭主関白でまわりを見ない強情な男に見えるだろう。強情なところもあるが、決して理不尽なことはない。それなりに気を遣っているのも分かるし、実直さが招いた見え方に違いない。
 何しろ私と似た性格なのだから、父が感情をあらわにした時の気持ちは他の誰よりも分かっているつもりだ。本気なのか、そこまで真剣ではないのかは見ていれば分かる。
 そんな父が、
「俺は不倫をしていたんだ」
 という告白をしてくれたことに、少なからずの驚きがあった。不倫というのは、父のような男性には一番似合わないものだと思っていたからだ。実直でしかも強情なところがある男性に、女性が惚れるとも思えなかった。ただそれは普通の女性の感覚から考えたもので、相手も癒しを求めていて、お互いに似たところを持っている人であれば、委ねてみたいと思うのも当然かも知れない。
――傷の舐めあい――
 という言葉が適切ではないかも知れないが、不倫という言葉の裏側に、この言葉が潜んでいるのではないかと私は思うのだった。
 二度と動くことのない冷たくなった母を見た時、私は初めて母のために涙を流した。何が悲しいというよりも、
――言いたいことがたくさんあったかも知れない――
 という思いが強く残ったからであった。
――言いたいことって何だろう?
 私は言いたいことというよりも、聞きたいことの方が多かったように思う。言いたいこととは、相手のことを分かっていて、それに対しての意見であるが、言いたいことがあるほど私が母のことを分かっていたとも思えない。相手が父であれば、言いたいこともたくさんある。しかし言える雰囲気の人ではないということが皮肉なことだった。
 母が死んだ時は私も若かった。同じ女性であっても、大人と子供では全然違う、却って男性であった方が、大人と子供の違いでも、身近に感じるかも知れない。
 父には言いたいことがある。聞きたいこともある。どちらかというと、言いたいことの方が多いかも知れない。言葉にしなくとも、分かることが多いので、聞くまでもなく、問いただしたいという思いもあった。
 別に責めているわけではない。責めるというよりもどちらかというと、言いたいことに気持ちを込めるという感じで、肉親でなければ、恋愛感情に近いものがあったかも知れない。
 そのあたりが父に似ているのか、会話に入り込むとムキになって話してしまって。相手を責めているような口調になるのは、さすがに遺伝ではないだろうか。父に似ているところはあまりないと思っていた私だが、父はどうやら私に似ているところがたくさんあると思っていたようだ。
 だから、なるべく内緒ごとは作りたくないと思っている。それは私も薄々気づいていた。父が不倫をしていたかも知れないというのも、高校生くらいの頃に分かったが、父が話をしないのなら、それでもいいと思っていた。
 私に秘密を持つのも逆に新鮮な感じがし。秘密と言っても私には分かっているのではないかという思いが父にもあるのだろう。不倫の告白の時も、緊張は最初だけで、あとは、私に諭すような感覚になっていた。
 父が私をどのように思っているか、私には分かっているつもりだが、時々どうしても分からない時がある。それは、父が私を拒絶しようと考えている時があるからで、短い時間ではあるが、周波数のようなものを感じる。私に立ち入る隙を与えない時、父が作った結界の中にいるのは、母なのではないかと思うことがあった。
 母が死んで十年以上が経った。あれから父は不倫をしている様子はない、癒しを求めたいがために不倫をしていた父だったが。母がいなくなったことで、癒しとは何なのかが分からなくなっていたようだ。
 それでも私が不倫を肯定しているわけではない。ただ父が求める癒しが不倫の中にあるのであれば、私はむした無碍に否定はしない。ただ自分勝手な欲望だけが癒しに勝っているとするならば、私はそんな不倫は否定するだろう。
 母は失踪した時、失踪する相手を探していたのだろうか。いや、私の知っている母であれば、誰かと一緒に死ぬなどという行動は想像できない。もし本当に不倫をしていたとしても、死を選ぶなら一人で死んだと思う。
 一人で死ぬのが怖いから、誰かと一緒に死のうと思うと考えるのは、誰もが同じ考えであり、人それぞれに違うという考えを否定したものではないだろうか。
 もし、私が死を選ぶとすれば、誰かと一緒に死んだりはしない。薬を飲んで死を選ぶとした場合を考えると、もし相手の薬が強くて、自分の飲んだ方は効き目が長いと考えると、目の前で苦しんでいる人を見ながら、やがて自分も同じ苦しみを味合わなければいけなくなる。それは拷問であった。できることなら、苦しまずに死にたいと思うのは誰もが考えていることだ。生殺しのような拷問に耐えられる自信はなかった。私が母の心中に、最初に疑問を感じたのはその点だった。
 相手が親密であればあるほど、一緒に死のうと考えないだろう。
「心中には、一人で死ぬよりも相当の覚悟がいるんだ」
 と聞いたことがあるが、死に対して真剣に考えたことがなければ、分かるはずもないことだ。
 私は、死というものを考えるようになったのは、大学に入ってからのことだった。もし、母が心中ではなく一人で死んでいたとすれば。中学の時に死について、もっと真剣に考えたかも知れない。大学になるまで考えなかったのは、母が心中を選んだことだ。
 私は母に裏切られた気がした。その思いから、母が選んだ死というものから目を逸らしていたのかも知れない。
 母は決して裏切ったわけではないのだろうか、父も裏切られた気がしていたようだ。ただそれは心中ということにではない、帰ってこなかったことに対してだった。
 死を選んだことに対して父は咎める気がしなかったのではないか。自分が不倫をしていたくせに裏切られたというのは、虫が良すぎる考えだが、本当は母の気持ちの奥にある何かを引き出したくて、他の女性の気持ちを知ることで、母の中にある何かを探そうとしていたのかも知れない。
 大学生になった私は、父の視線を痛いほど感じることがあった。その視線が娘としてではなく、女としての視線であることが分かってきた。
「しおりはかあさんに似てきたな」
 と言っているが、果たしてそうだろうか。
 それに父の言葉には私を苛立たせる言葉が含まれていた。母に似てきたというのは、私にとっては屈辱だった。それを分かっていて言っているのだろうか。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次