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短編集70(過去作品)

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 それでも計算だけはいつもしている。あくまでも無意識にであって、それ以外のことはあまり考えないようにしている。おかげで相手の話を素直に聞けるようになり、相槌の打ち方も次第に板についてきたようだった。
 この店は常連客がほとんどで、たまに常連客が後輩や新入社員を連れてくることがあるが、初々しい後輩や新入社員を見ていると、私の方も照れ臭さを感じてしまう。いくら新入社員とはいえ、私はまだ学生、どう接していいあ分からなくなるが、それを常連客は見たいと思っているようで、ニヤニヤと楽しそうに見つめられているのが分かると、顔が真っ赤になるほど、恥かしいものだった。
 新入社員の中には、私を気にしてくれている人もいた。常連客は、いつもその人を連れてくるが、そのうちに、新入社員さんが一人で現れることもある。そんな時、店の人が気を遣ってくれているのかどうか分からないが、私をつけるようにしてくれている。他の人のように気の利いた会話ができるわけでもないのにどうして私なのかと不思議に思うのだった。
「俺、いつも何かを考えているような性格なんだ。その時々で考えていることがバラバラなんだけど、何かを考えている時って、他のことが耳に入ってこなくて、自分の世界なんだよね。それって結構楽しいんだけど、他の人からはボケっとしているように見られるし、道を歩く時とか危ないよね」
 と言っていた。
「私もいつも何かを考えているんですよ。いつも同じとは限らないんですけど。そんな人って稀なんだろうって思っていたんですけど、結構いるかも知れませんね」
 いつも同じことを考えているとは言えなかった。そうすればきっと、
「いつも何をそんなに考えているの?」
 と聞かれるに決まっている。
「いつも計算みたいなことをしているのよ」
 と言うのはさすがに恥かしい。
「いつも同じことを考えているとは限らない」
 という返答が一番無難であろう。
「結構いるかも知れないというよりも、本当は何も言わないだけで、誰もが同じなのかも知れないですね」
「そうかも知れないわ。でも、もしそうなら、きっと面白いでしょうね」
 顔に出る人でない人、いろいろいるだろう。確かにいつも何かを考えているように見える人もいなくはない。たとえば中学高校の時など、一クラスに一人くらいはそんな人がいたかも知れない。今から思い出すから分かるのであって、その時は、
――絶えず何かを考えているような人なんて、そうはいないだろう――
 と、頭から信じて疑わなかったものだ。
 そんなことを考えていると、死んだ母の面影が瞼の裏に浮かび上がってくるのだった……。

 伝えたる
  思いを胸に密かなる
   夢見枕に母の姿よ

 最近、母の夢をよく見るようになった。いつも物静かで、表では決して笑ったりしない母が、私の前では笑ってくれていた。
 父と一緒にいる時の雰囲気からは、お互いに笑顔など出るはずもない様子が、子供心に緊張感を植え付けられた。家族が揃って食事など考えられない。特に父が私たちと一緒に食事をするなど考えられなかったくらいだ。
 いつも帰りは遅かった。帰ってきても挨拶もせず、台所にいる母を一瞥しただけで、すぐに部屋に引きこもる。母も声を掛けることもせず、黙って風呂に入り食事をする。
 父が食事を始めると、母はテレビをつけてモニターを見てはいるが、番組を見ているとは思えない。完全に上の空の状態であった。私が母の一番嫌いな顔がそこにはあるのだった。
 私は父が嫌いだ。私の一番嫌いな表情を母に作られる父、夫婦間のことなので、元々はどちらが悪いのかなど、子供に分かるはずがない。それでも私は父を憎んだ。母が死んだと聞いた時、驚きもあったが、
――ひょっとしてこんなことになるかも知れない――
 と思っていたのも事実だった。ただ、最悪の想像があまりにも嵌りすぎて当たってしまったことが私に驚愕をもたらしたのだ。
 予感はあくまでも予感であり、予想ではない。母が死ぬなど、想像できるはずもなく、私の中で育まれてきた母親のイメージを崩すことのない死であれば、ここまでの驚愕はなかったであろう。母の死はそれだけ私にとって想定外のことだったのだ。
 それは、相手がいるいないの問題ではない。確かに不倫相手ではないということで安心もしたが、不倫相手であっくれた方が、私には安心だった。母の苦しみを少しでも癒してくれたのであれば、それはそれでありがとうと言いたいくらいであったが、遺書もそこそこで理由らしいことはまったく書かれていなかったことで、¥も、二人が深い関係ではないことが分かるだろう。
 私には不倫をしていたのは、父だったのではないかと思う。母の性格から、
「目には目を、歯には歯を」
 という感じがしてこないのだ。それは母の性格が私に似ているからだとずっと思ってきたし、今も思っているからである。
――私だったら、こうするだろうな――
 大人と子供で考え方は違えども、母の気持ちになってみれば分かってくることもある。特に今になって母のことを思い出せば、納得がいくことが結構ある。
 私が大学三年生くらいになった頃から母の気持ちが分かるようになってきた。母が死んで六年くらいが経ってからのことなので、なかなか思い出せないのが普通なのだろうが、夢に出てくることで、鮮明に思い出せるようになったのだから不思議でもないかも知れない。
――母の精神年齢が二十歳くらいだったのかも知れない――
 とも思うようになった。
「夢見る乙女」
 のようなところが母にはあった。いつもというわけではなく、特に私と一緒にいる時に気が付けば何かを考えていて、うっとりしていたのだ。
 母も私と同じでいつも何かを考えていた。母の夢を見るようになって、母が何を考えていたかが分かってきたのだ。
――やっぱり遺伝だったんだ――
 母も私と同じように、計算をしていたのではないかと思う。母が考え事をしている表情を見ていると、まるで鏡を見ているように、私の顔に似てきているように思う。そう思い始めてから、私はしょっちゅう鏡を見るようになった。その表情はいかにも私が鏡を見た時の表情で、何も考えていないのに似ているのを感じるのだった。二人で一緒に並んで考え事をしていたら、さぞやまわりから不気味に見えるに違いない。
 ただ、私が一番嫌いな母の表情。父と一緒にいた時のあの表情も私がしているのだとすると、想像するだけで恐ろしさを感じるのだった。
――母には私の知らない世界があったんだ――
 と思うと、私にも誰にも知られたくない世界が存在しているのかも知れないと思えてきた。それが無意識に作られるものなのか、それとも、これから作られるものなのかと思うと、母の夢を頻繁に見るようになったこの時期が、大きな人生の中での一つのターニングポイントになっているように思えてならない。
 父が不倫をしていたという話は大学生の時に知った。父が自分で話したのである。
「俺のような男と結婚すると、お母さんのようになるぞ」
 一体どういうつもりなのか、父の考えが分からない。ただ、大学生になったのだから、私なら分かるだろうと思ったのか、
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次