短編集70(過去作品)
「俺は、その時絵を描くのが好きだったので、彼女のヌードを描いたことがあったんだ。ホテルの部屋で延々と描き続けたこともあったが、彼女は文句ひとつ言わなかった。俺もここまでじっとできるモデルがいるなんて信じられなかったが、彼女は本当に従順だったな。従順と素直とは違うと思うんだが、彼女に関しては同じものだった。一足す一が三にも四にもなるんだ。それも彼女の魅力だったな」
課長は、大学時代の彼女の話をしている時はイキイキしていた。本当であれば、嫉妬してしかるべきなのだろうが、百合子に嫉妬の感覚はない。それよりも、彼女の話を聞くことで今まで知らなかったこと、誤解していたことが少しでも分かるようになるのを願っているのだ。
「江崎さんは、私のことも分かるのかしら?」
「ああ、少しは分かるつもりだよ。ただ、どうして意地悪をしたくなるのかは分からないけどね。意地悪をするということは、本当なら相手の反応を見て、それに苛立ちを感じるか、あるいは、興味を覚えるかでないと苛めても意味がないように思うんだ。だけど、君の場合は、苛めた後にその感覚がまったくないんだ。もちろん、後悔の念が襲ってくるわけでもない。襲ってくるなら、最初から苛めたりはしないはずだからね」
課長のいうことはもっともだった。本人の口から苛める原因を聞きたかったのだが、本人もよく分からないようだ。他の人であれば、
「なんて理不尽な」
と思うことだろう。だが、百合子はそうは思わない。苛めるには何か原因があるはずだ。それが課長の心の奥を覗く、最初のきっかけになるのではないかと百合子は思うのだった。
「百合子の場合は、怪しい女を感じる。今までの私のまわりにいた女性にないものだ。最初は、SMの感覚なのかと思ったがそうでもない。確かに百合子はSMの世界に入れば、どちらの素質もあるような気がするが、どちらもあるだけに、入り込むという気がしないんだ。レズビアンの世界もありえるが、溺れるタイプでもない。特に百合子はボーイッシュだからね。レズビアンであっても、静かにいつでも冷静で、そして計算している気がするんだ。結局、それ以上は俺にも分からない。ただ、逆にいえば、そのどれにも入り込んでいたとしても、私は不思議だとは思わないんじゃないかな」
またしても見透かされている。だが、自分で感じている思いと指摘する江崎課長の考えとは、微妙なところで合致しない。近くを通っているのに交わることもなく、近くにいることすら分からない。平行線を描き続けているのだ。
それにしても江崎課長の発想というのは、何とも不思議なものなのだ。描き続ける感覚は、学生時代に描いていたという絵の世界を彷彿させる。
――いったいどんな絵を描いていたのだろう?
ヌードばかりを描いていたわけではないだろうし、ヌードを先に言われると、他の絵を想像することができなくなった。
――これって課長の策略?
何が目的なのか分からないが、策略だとすれば、何かの目的のためのプロローグでしかないように思う。考えれば考えるほど、江崎課長という人の正体が次第に大きくなっていくのを感じるのだった。
百合子にとって江崎課長は、付き合えば付き合うほど大きくなっていく存在で、その大きさがゆえに、分からない部分も膨らんでいく。分かっていくよりも先に大きくなっていくのだ。
その大きさは目の前に広がるものではなく、奥に深くなっていくものだった。中にはそんな人もいるのだろうが、ハッキリと奥に深くなっていく感覚を感じることができない。漠然と相手が分からなくなっていくように感じる時、
「だんだん、遠くなっていく気がするわ」
と思う人が多いが、それは奥が深くなっていくのを感覚的にだけ分かっているからで、理解できていないからではないだろうか。
江崎課長が奥に籠っている時が分かるようになってきた。それが苛めをしている時だったのだ。苛めておいて、一歩下がる。考えてみれば、卑怯に思えるが、分かってみれば、それが相手の心を見透かされたくないという思い、いわゆる「恥じらい」のようなものだと思うと、課長が急に可愛く感じられるからおかしなものだった。
真里菜のことを思い出していた。
江崎課長と二人きりでいるというのに真里菜のことを思い出すというのは、
――もし、真里菜が男だったら?
という発想が百合子の中にあるからなのかも知れない。
もし、真里菜が男だったら、江崎課長と同じ性癖ではないかと思ったからである。江崎課長が女だったら、真里菜の性癖と同じではないと思うのだが、ただ、百合子にすれば、二人から離れることができなくなってしまったのは事実だ。もっとも、百合子が離れられないということは、二人も百合子から離れられないということだと、百合子は思い込んでいた。
真里菜の性癖の一つで、男に対してはMになり、女に対してはSであった。しかし、真里菜が百合子に求めているのは、また少し違った性癖である、百合子に対してはSではないのだ。
――真里菜は私を男として見ている――
そう感じたからなのか、江崎課長に対しての気持ちの裏には、真里菜への反発の思いがあったのかも知れない。自分をオンナとして見てくれるオトコを探していたのだと言っても過言ではない。
江崎課長が確かに一番身近な男性であったのは事実だが、何も妻帯者である江崎課長にしなくてもいいのにと思ったが、百合子も自分の性癖の中に、年上の、しかも不倫に憧れる想いがあることに気が付いてしまったのだ。
――同い年くらいの男性は、何を考えているか分からない――
この思いは、桜井によって作られたものだ。
それにしても桜井の行動は何と都合のいいタイミングで起こったことなのかと百合子は思っていた。しかし、考えてみれば、それは結果から導き出される思いで、今の自分の置かれている状況を遡ると、「あの時」というのは偶然に思えても、すべて必然だったと考えるべきではないだろうか。そう思うことで、自分の感情が引き起こしたと思っている偶然も、後から結果から考えて、その時に本当は何も考えていなかったり、あるいは違うことを考えていたかも知れないのに、後から考えた理屈から割り出された考えがすべてに優先するという考えも生まれてくる。
百合子は最近自分のまわりで慌ただしく起こっている出来事が、真里菜、江崎課長、そして桜井のそれぞれの思いが、偶然の重なりとして引き起こしているものではないかと思っていた。確かに偶然があることも否定できない。かといって、すべてが偶然だと言ってしまえば、そこには何ら意思の入り込む余地はないだろう。
百合子は真里菜と江崎課長を無意識に比較している自分を感じていた。感じたことにハッとして、
――何を考えているのかしら――
と考えていること自体を否定する。
百合子を軸に存在しているが、決して交わることのない二人だと思っている。会社での付き合いだけだということだ。無意識に二人のことを考えてしまうのは、その思いが強いからではないだろうか。
――二人はまさに火に油。絶対に合うはずはないのだ――
と百合子は考えている。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次