短編集70(過去作品)
江崎課長は、来るものは拒まない主義だと言って笑っていたが、百合子にはそれだけではないように思う。もし、課長に今まで他に女性がいたとしても、自分に対しての愛情とは違うのだ。お互いに以前から愛し合っていたような感覚で、違和感などないと思っているに違いない。だからこそ、簡単に身体を重ねることができた。
百合子もそんな自分にビックリしていた。苛めが何だったのかも忘れてしまっていた。
「あれはきっと別人だったのね」
「あれって?」
「あれは、あれよ」
江崎課長にも分かっているかも知れないが、あくまでもぼかした。ハッキリ言わないことが、百合子のせめてもの今までの報復であった。報復が済めば、お互いに先に進むだけだった。不倫という言葉が百合子には何となく心地よく感じられた。今までであれば、毛嫌いしていた言葉だったはずなのにである。それは苛めの本人と対象が愛し合うという信じられない感覚への扉を開くことで、嫌悪感への決別だったのだ。
その頃には、百合子と真里菜の間では超えてはならない一線を越えていた。百合子は真里菜のポイントを的確に捉え、真里菜を満足させていた。それに対して百合子は見返りを求めるようなことはしない。自分で満足してもらえるのが一番だと思っているからだ。
二人ができていることを知っている人は誰もいないはずだ、会社で話をすることはあっても、プライベートで共有する時間を持つのはベッドの中だけであった。それは関係からすれば冷めているように見える。だが、二人はそれで十分だった、与えることに目覚め、さらに与えられることを欲する二人には、この上ない時間の過ごし方だった。他の時間を共にすることは却って、神聖な時間を犯してしまうようで、嫌だった。
真里菜は、百合子が他の男に興味を持ってもいいと言ってくれていた。だが、それは百合子にはそんなことはできないだろうという真里菜の勝手な思い込みで、百合子が江崎課長になど、もっての他のはずだった。
もちろん、百合子は真里菜に悪いと思いながら、なるべく悟られないようにしようとしていたが、これほど無駄なことはなかった。最初こそ無駄な努力を重ねていたが、次第にバカバカしくなってきたのは、何を真里菜に遠慮する必要があるのかと思ったからだ。
真里菜との間では、百合子の方が優位に立っていると思っている。関係ができるまでは確かに真里菜の思いのままに動いていたような気がしたが、真里菜はいったん関係ができてしまうと、相手に完全に委ねる女に変わってしまう。完全に「ネコ」になってしまっているのだった。
それはプライベートでも仕事でも同じこと、真里菜はある意味百合子の奴隷のようであった。それを喜んでいる真里菜。時々恐ろしくなるが、一度覚えてしまうと抜けられない感覚になっていた。
従順という言葉で言い表すと、可愛げがある。だが、奴隷というと、ドロドロしていて異質な世界に入ってしまうのだが、二人の関係はそこまで行っているのかも知れない。
ベッドの中でそれほど特別なことをするわけではないが、まるで薬で錯乱しているかのような表情を浮かべる真里菜を見ると、抜けられないと思っている自分が怖くて仕方がない。
――そんな私には、もう普通の男性と恋愛なんかできないわ――
課長を好きになった感覚は歪な感情が生み出した絵空事なのかも知れない。それでも今の百合子は、真里菜と一緒にいない時間をどのように過ごすかが問題だった。とても以前の自分に戻ることはできない、江崎課長が百合子の前にいるのも何かの縁だ。
――どうして私のまわりにはこんな人ばっかりなのだろう?
もう一人の顔が思い浮かぶ。桜井だった。
桜井は百合子を本当に追いかけていたのだろうか? 一度だけ百合子に対して行ったストーカー行為、いくらドジとはいえ、まるで見つかるのを予期したというよりも、見つかることを期待かしたかのような態度に、違和感を感じないわけにはいかなかった。
この思いは、百合子が江崎課長を受け入れてから感じるようになった。それまでの百合子は男性を意識しないようにしていた。避けていたと言ってもいい。それは自分がボーイッシュだというコンプレックスがあったからだ。心は女性で、身体は男性に近いと思うと、男性が気持ち悪く感じられるようになっていたのだ。
女性が男性の身体を知らないことで気持ち悪いと思う気持ちとは違う。自分にないものを相手が持っていることへの好奇心は、生まれつき与えられているものだ。百合子のようにボーイッシュな人間が男性に対して感じる思いは、女性が男性を見るのと感覚的にかなり違っていることだろう。
江崎課長を受け入れたのは、普通の男性と違うことが大きな理由だった。江崎課長には他の男性にはないものがあり、百合子が表面上見ていたものの他に何かがあることを次第に感じさせるものがあった。魅力という言葉とは少しニュアンスが違っているが、決して悪いものではない。かといって、苛めていた時の江崎課長と変わってしまったわけではない。怖い雰囲気を残しながら、百合子の中で他の魅力を見つけたのだ。それも魅力の中に怖さが見え隠れするわけではなく、怖さと魅力はまったく別物だった。同じ雰囲気の中で別の人格が存在する。これは、百合子にしか分かるはずのない江崎課長の特徴だった。
「君が私に何を感じているか分かっているつもりだよ、非常に不思議な特徴を持っている男性だと思っているだろう? 実は大学時代に付き合った女性からも同じ感覚だって言われたことがある。その娘は思ったことはハッキリという娘だったからね。そういえば、彼女にもかなり意地悪をしたものだ。でも不思議なんだ。意地悪をしているつもりはないのに苛めになっている。そしてその相手の女性から私は好まれてしまうんだ。だから君も私を好きだって言ってくれた時、それほど驚かなかっただろう?」
確かに課長は平然としていた。まるで分かっていたかのような雰囲気に、却って苛立ちを感じたほどだった。それにしても、課長の学生時代に百合子と同じような女性がいたのは意外だった。本当は、
「最後はどうなったんですか?」
と聞きたいのはやまやまだったが、怖くて聞けない。せっかく二人は今始まったばかりなのだ。まったく同じ結末を迎えると言えるはずなどないが、それでも百合子が結末を気にしていることを知られたくなかった。それは、百合子の中で恥かしいことなのだと思うからだった。
――自分のすべてを見透かされてしまう――
百合子にはその思いがあった。明るい部屋で、裸になってすべてを晒しているよりも恥かしい。相手がギラギラとした目で見ているのが分かって、まともに相手の顔を見ることができない感覚だ。だが、この恥かしさは少し違う。相手を直視できる気がしているのだ。相手を直視できることはいいのだろうが、その反面、判断を誤ってしまうのではないかと思うからだった。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次