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短編集70(過去作品)

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 入ってきてまったく声を発していない課長に対して、マスターの行動がテキパキとしているので、課長がこの店の常連であり、このような光景は少なくとも今日だけのことではなく、最近よく見られる光景なのだろう。
 百合子はそれでも友達との会話を止めることはなかった。会話もしながら課長を気にしている。注意力が露骨に散漫になっていれば友達も一言百合子にいうのだろうが、ちゃんと返事が返っていることから、この状態を諌める気はしなかったのだ。
 江崎課長の姿を見ていると、普段の説教が思い出された。
 確かに言っていることに間違いはないのだが、返事に困る質問をされたり、答えられないだろうと思うことを聞いてくる。
――私の反応を見て楽しんでいるんだわ――
 としか思えない状態だった。
――私に辞めてほしいとでも思っているのかしら?
 百合子は自分でいうのもおかしいと思いながらも、仕事に関しては真面目で、人から後ろ指を刺されることはないと思っていた。それ以上言われるということは、完全な苛めだとまで思っていた。
――これ以上、私にどうしろというの?
 それが百合子の考えの行きつく先だった。
 課長は完全に酔い潰れている。最初こそ、
「いい気味だわ」
 と思ったが、すぐに後悔が襲ってきた。それだけ自分の感覚とは程遠い、見たくなかった姿を見てしまったのだ。
――私を苛めるのだから、それなりに堂々としていてほしい――
 という気持ちが湧き上がってきて、こんなに情けない人に頭が上がらなかった自分が、それ以上に情けなくなる。余計なことを知りたくないと思っていた人の本性がここまで情けないと、笑いも出てこない。
 その日の夜、百合子はなかなか寝付けなかった。見てはいけないものを見てしまったことへの後悔? いや、後悔というよりも忘れられない姿を見たという感覚が次第に大きくなっていくという恐怖に駆られていたのだ。
 その恐怖は今まで課長に感じてきたものとまったく違う。
 同じ人に、同じ言葉の感情であるのに、なぜこんなにも違うのか。百合子は翌日課長をどんな目で見ればいいのか、その思いが眠れない原因だった。
 百合子に見られていたことなど、知る由もない江崎課長は、いつものように百合子を苛める。しかし、今まで以上に顔をそむけている百合子に対し、課長はそれ以上の怒りをぶつけることはなかった。
「あまり私を怒らせるんじゃないよ」
 と、今までにない優しい口調で語りかけてきたのにはビックリした。その時にチラッと見た課長の顔に、百合子はドキッとしたのだった。
――何なのかしら?
 懐かしさを感じたが、この思いを感じたのはつい最近だったように思う。だが、どんなに思い出そうとしても、この感覚がいつ、どこでだったのか分からない。まるで夢の中でのことだったかのように思えるが、最近夢を見たという記憶がなかった。
 夢の内容は、目が覚めるにしたがって忘れてしまうものだが、夢を見たという事実を忘れることはなかった。いつのことだったかまでハッキリとは覚えていないが、見た事実は頭の中から消えたり封印されることはなかった。
 課長の顔がこれほど大きなものだったとは思わなかった。逆光になっているのか、顔には黒い影が見え、表情はハッキリとしない。しかし、その顔は怒っているわけでもなく、情けない表情でもなかった。
 いかにも夢の中という表情だった。夢の中でも、
――どこかで見たことのあるような顔だ――
 と思うのだった。
 夢の中と現実とでは同じ人間でも顔や表情が違っている。現実の世界では、目に飛び込んできた表情が本物であるが、夢の世界では、自分が感じている表情だけが本物である。どこかで見たことのあるような表情なのに思い出せないのは、夢と現実の間に大きなギャップがあるからに違いない。
 今まで百合子の前に君臨していた課長の本当の姿を、昨日スナックで見てしまった百合子。しかし、それ以前に夢の中で同じ光景を見ていたのだろう。その感覚はデジャブであり、夢だと気付かなければ、デジャブとしてやり過ごしていたかも知れない。
 デジャブは、誰でも経験することであるが、不思議な現象として捉えられながら、実際は錯覚に近いものだという考えもある。実は百合子も同じような考えを持っていて、風景などは特に錯覚だと思っていた。しかし、ここに夢の世界が入り込んでくると、なまじ錯覚だと言えない。夢の世界自体が、現実とは違い、潜在意識が作り出したものである。それも現実や経験に基づいたものが存在していて、デジャブの存在は錯覚だけで答えを出せるものではないのだった。
 百合子は夢の中で一人の人間を作り上げた。江崎課長のように極端に百合子に接してくる人、現実世界の裏返しが、夢の世界にいるのかも知れない。夢の中で一人の人間を作り上げるというのは、きっと意識の中で正反対の人を作り上げていることだろう。
――江崎課長は私をどう思っているのだろう?
 苛めの対象としてだけしか見ていないのか。それとも、
「好きな子ほど苛めたくなる」
 という子供の感覚なのだろうか。
 課長の無邪気な姿、夢の中なら見れそうな気がする。無邪気なところは、余裕を持った気持ちから生まれるものだと百合子は思っている。余裕のない人がどんなに無邪気であっても、それは演じているにすぎないのだ。課長の無邪気さは今は夢の中でしか見ることができないが、いずれ実際に見ることができるように思う。しかし、それは夢の中での無邪気な課長との決別であり、苛めの対象としての百合子が、夢の中にも現れてきそうで、怖いのだった。
 百合子がいつから課長に恋心を抱くようになったのか分からない。だが、苛めを受けていた時から、少しずつ芽生えていたのではないかという思いを今では拭うことはできない。決定的になったのは、スナックで課長の姿を見た時だろう。あの時から百合子は変わったのだった。

 小悪魔が
  悪女となりて戯れる
   一途な思い導く素直か

「君がまさか、私とこんな風になるなんて、想いもしなかったよ」
「私もですよ。嫌われているとしか思っていなかったですからね」
 そういって、百合子は男の逞しい腕に抱かれていた。シーツは乱れ、気だるい雰囲気の中で、百合子は男の左腕を枕にしながら、たくましい身体に抱き付くのが好きだった。
 男というのは、江崎課長である。
 恋心はいつの間にか淫靡なものに変わり、それまで気付かない間に抱いていたはずの恋心も分からぬままに、気が付けば、百合子は江崎課長のものになっていた。心も身体も捧げた相手、それが江崎課長である。
 口説かれたという意識もない。百合子はただ、引き寄せられるかのように、江崎課長を求めた。江崎課長も拒否することはない。しかも身体の相性はバッチリだった。江崎課長と一緒にいることで一つ分かったことがある。それは、
――二人の間に戸惑うことは何もない――
 ということだった。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次