短編集70(過去作品)
酒を飲むというよりも雰囲気を味わいたいという思いはあった。それには誰も誘うことなく一人で出掛けるのが一番で、駅から降りて少し入ったところにあるキッチンバーの常連となっていた。
客は男女とも、ほとんどが一人で来る人で、皆常連だった。それぞれ立場は違っていても気持ちは百合子と変わらない人が多いようだった。カウンターしかない店なので、皆マスターと対面だ。カウンターの奥から見る光景はさぞや興味深いものではないかと思うのだった。
こういう店では意外とボーイッシュな方が興味を引くようだ。好奇の目で見られるわけではなく、頼もしく見られているように思えるのが心地よかった。自分に合わせたカクテルを造ってくれるのもありがたかった。マスターとはすぐに仲良くなれ、適度なわがままも聞いてくれる。
「ただいま」
いつの間にかまるで自分の家に帰ってきた感覚になり、まわりの人たちとも適度な距離を持っているのに、部屋全体に漂う暖かさは、距離ではなくそれぞれの雰囲気が醸し出す感情のようなものが程よい暖かさに保たせているからなのだろう。
キッチンバーとスナックとでは雰囲気も違う。友達は百合子が一人でバーに行っているなど知らないだろう。本当は似合いそうなのに、百合子なら行かないと思っているに違いない。アルコールは苦手で、人と絡むことが好きではないという雰囲気をいつも表に醸し出しているので、百合子と夜の店を結びつける人は少ないに違いない。
友達と一緒に行った店は、百合子はもちろん初めてだった。友達は何度か他の友達と来たことがあるといっていたが、座る席は決まっていて、いつも一番奥のテーブル席だった。
たった二人でもテーブル席に座らせてくれるのは、普段から客が少ないわけではなく、曜日によって賑やかさがある程度決まっているからだという。常連さんの多い店では当たり前で、一人一人が来る曜日が決まっていれば当然、曜日で大体の見当はつくというものだ。
いつも同じ曜日に行くと、いつもの人がいる。当然そこで会話になれば常連同士なのですぐに打ち解けることも考えられる。
「あの人がいるから、火曜日に行こう」
などと、相手によって自分の立ち寄る曜日も決まってきてしかるべきであろう。そう思うと、友達が今日現れたのはお店からすれば意外だったのかも知れない。普段は違う曜日に違う常連さんと打ち解けた会話をしているのではないかと思うと、自分も常連同士会話ができる人がいてもいいのにと思うのだった。
キッチンバーで会話をするのは、ほとんどマスターとだけだった。興味のある会話でもでしゃばって人の会話に入ることはしない。キッチンバーのようなお店ではその行為が一番場を乱す行為であり、してはいけないことだと思っている。やはり、バーとスナックでは雰囲気や客層が、かなり違っているようだ。
奥のカウンターから見る店の光景は、入ってきた時に比べると、かなり広く感じられた。立っていて見下ろすのと、座っているのでは当然違うであろうが、それよりも、店の調度が奥の方に行くほど暗くなっているからなのかも知れない。
店に入ると最初に気になるのは一番奥の席である。明るさを抑えているのは、奥に座った客への気遣いなのではないだろうか。
一番奥の席に座ってまわりを見ると、自分が暗いところにいるせいか、影が気になるのだ。
影というと、以前桜井にストーカーまがいの行為をされた時に、一番最初に気になったのが影だというのを思い出した。
誰かがいるという気配はするが、影が見えなくて、気配だけだというのは気持ちが悪い。実際に影を感じると、ゾッとするほど怖いのだろうが、感じなければいけないものを感じないということほど気持ち悪いものはない。
百合子はハイテンションではあったが、あまり饒舌ではなかった。むしろ友達のいう話を聞いているだけで、頷いていることに対して自分の存在感を感じていた。ハイテンションな気持ちは頷くことにあったかのようで、話を聞いているだけで、まるで自分のことのように思えてきたのだった。
酔うと人の気持ちに立って考えることができるようだ。普段は自分中心で、だからあまり自分から人に話しかけたりはしない。人に話しかける時は、少なからずテンションを上げようと無意識に考えていたのだろう。
自分中心の考えというのは、いわゆる自己中心的な考えとは違っている。むしろ、百合子は自分中心の考え方を悪いなどと思ったことはない。自分が納得できなければ、人を納得させられるわけはないという考えを持っているからだ。
自分中心の考えは人から見れば影に見えるところが、自分の中では表なのだ。影が気になっているということはその人を気にしている証拠で、そう思えば、自分は桜井や江崎課長を気にしているということになる。嫌がってはいるが、決して気になっているわけではない、影を気にするのは嫌がっているわけではない相手を気にしていることになるからだ。
――どうして嫌な人ばかりを気にするのかしら?
特に最近では江崎課長が気になって仕方がない。考えてみれば、課長の後ろ姿をほとんど見たことがなかったような気がした。同じフロアにいるのだから、見たくなくても見えるもののはずなのに、なぜか後ろ姿を見ることができない。
確かに後ろ姿を見たくない人は誰かと聞かれれば、
「江崎課長」
と答えるだろう。見たことがなくても他の人なら後ろ姿を想像することはそれほど難しいことではない、桜井の後ろ姿ですら想像できた。
しかし、江崎課長だけは無理だった。後ろに回り込もうとすれば、自分も回転して、後ろを見せないようにするに違いない。それは決して嫌みからではなく、百合子の視線を図ったように察し、見えないようにするだろう。表情はまったくのポーカーフェイスでありながら、必死で見られないようにしようとする気持ちが見え隠れしているかのように思える。
百合子と友達が奥の席で世間話をしながら飲んでいると、扉が開き、そこに入ってきた人を見た時、百合子はビックリしてしまった。江崎課長が立っていたからだ。
最近気になり始めた人が、想定外の場所に現れた。しかも自分の目の前にである。しかし、江崎課長は、そこにいるのが百合子であることに気付いていないようだ。目には入っているように思えるが、そこにいるのが部下の百合子であるという意識はないようだった。
――どうしたのかしら?
一番手前のカウンターに腰かけて、両腕をカウンターに乗せ、背筋を丸めている。服装は会社で見るスーツ姿ではなく、ラフな格好だ。それでも派手な服を着ているわけではなく、スナックに来るにはちょうどいい服なのだろう。もっとも派手な服が似合う人でないことは分かっているので、服装に関しては、あまり意識はなかった。
それなのに服を気にしてしまったのは、会社で見るきりっとした姿はどこへやら、疲れ果てた様子は、まるでボロ雑巾のようだった。ストレスに押し潰されそうな雰囲気は、会社で苛められている百合子からすれば、いい気味なのかも知れないが、とてもそうは思えない雰囲気だった。
マスターは黙って水割りを作っている。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次