短編集70(過去作品)
百合子はあまり人のプライベートにかかわることをしない方だった。事務員の溜まり場である給湯室に行くのもあまり好まない。聞きたくなくとも人の噂が耳に入ってくるからだ。聞きたいのであれば別に気にもならないが、聞きたくもないものが聞こえてきて、聞いてしまうことが、まるで責任を負わされたかのように思うのだった。
余計な責任など負いたいと思わない。自分にもコンプレックスがあるように他の人誰にでもコンプレックスは存在する。人によって同じようなコンプレックスでありながらも、その度合いの大きさによっても違いがあったりする。コンプレックスを感じていると、余計なことまで考えてしまう。それが責任を負いたくない気持ちと似たようなものなのかも知れない。
人のプライバシーに土足で踏み入ってしまいそうな性格に見えるのが真里菜だった。真里菜は言いたいことを平気でいうので誤解されがちなのだが、実際には考えてものを言っている。誰彼ともなく言いたいことを言えば、それこそまわり全体敵だらけになってしまうだろう。
だが、真里菜にはそれほど敵がいると感じたことはない。普段は何も言わずに黙っているのに、急に一言発する人がいた。その発言が、解決したことに対して蒸し返すような発言をしてしまうので、たちが悪いのだった。
間が悪いの一言なのだが、まわりの空気を一気に冷めさせてしまう。一人に対してではなく全体に対してであれば、その場にいた人たちは、それぞれにどう収拾すればいいのかを考えさせられる。しかも自分だけの問題ではなくまわり全体のことなので、これほど気を遣うことはない。
「まったく余計なことをしてくれたもんだ」
と、誰もが思っているに違いない。
一人が全体の空気を乱す時、その人は苛めの対象になる。これは百合子が学生時代に感じたものだ。自分は絶対にそんなことをしないようにしようと思っていたが、自分が思っている以上に、まわりを乱しているのではないかと思ったものだ。
だが、それであれば課長一人でなく、他の人からの視線も違うはずだ。冷たい視線を感じたことはなく、それよりも憐みの視線が強かったのだ。それはそれで嫌だったが、四面楚歌になるわけではないので、まだマシかも知れない。
課長と百合子の二人だけの問題なのだ。
――きっと江崎課長の中にあるどうしても虫の好かない性格が私の中に見え隠れしているのかも知れない――
課長の中で、百合子に対しての後悔や反省という言葉は存在しないのだろう。それともその時だけは後悔しても、顔を見るとすぐに忘れてしまうのだろうか? そちらの方が百合子としては辛い気がしていた。
何をするのも嫌な時期を通り越すと、今度は気持ちに少し余裕が出てきた。その余裕にふさわしい時間の過ごし方が、恋愛小説を読むことだった。
恋愛小説を読んでいるとさらに鬱が深まる気持ちに陥るのだが、どこか不思議な感覚もあった。
――今だから恋愛小説に入っていけるんだわ――
と思うのだが、それだけ普段の生活と小説の世界がかけ離れていて、さらに心の底で憧れているものだからなのかも知れない。
恋愛小説の中に、苛められて愛に目覚めるというような話もあった。
――小説だから、ありえることなんだわ――
現実離れしているからこそ、それをいかに読者に納得できるように物語を組み立てていくかが、作者の手腕であろう。読んでいて、ところどころに吹き出してしまいそうなくらいのコミカルなところもある。全体的にはシリアスな内容となっているが、現実離れした内容なので、コミカルなところがワンポイントとしてインパクトを与えることになる。
ただ、現実離れはしているが、百合子が知らないだけで、苛められて快感を感じる世界があるという話は聞いたことがある。小説はフィクションであるが、無理のある設定というわけではない。読者の中には、
「うんうん、もっともだわ」
と思って読む人も多いことだろう。
内容から言って、読者は女性が多いように思う。特に性描写が過激なのは女性誌に多かったりする。レディコミなども過激なものが多いという。百合子はなるべく性描写の多いものを避けてきた傾向にあるが、決して興味がなかったわけではない。
社会人になって、特に江崎課長に苛められるようになってから、百合子は自分の中で性描写が激しいものを見てみたいという衝動に駆られることが多くなった。真里菜からの視線を感じると、レズビアンの小説を読んだりもした。自分が置かれている立場、そして真里菜がどのようなことを考え、百合子に何を求めているかを知りたかったからだ。
しかし、しょせん小説やコミックというものは、もちろんそればかりだとは言わないが、どうしても商業主義になってしまって、
――いかにすれば売れるか――
ということを最優先に書かれていて、面白おかしいものも少なくない。そのため、何が現実に近いのか、分かるようで分からなかった。分かったのは、それぞれの世界にもやはり人それぞれで考えが違うということだ。作者によって描き方に個性があり、それぞれに納得できる部分とできない部分、百合子に分かるくらいに違っているのだ。
――何となく、どことなく違っている――
というのであれば、それほど差はないと思うが、納得できる部分とできない部分が分かるというのは、それだけ作者にも個性、あるいは経験があるからだろう。経験がなければ書けない部分もあり、それを思うと、確かに現実として存在している世界であることが分かってくるのだった。
ある日を境に、百合子は江崎課長が気になり始めた。江崎課長には人には言えないコンプレックスがあったのだ。それを垣間見たのは、百合子が学生時代の友達に誘われて、あまり行き慣れないスナックに行った時のことだった。
普段から立ち寄ることのないスナックに来ると、普段見せない自分が湧き出してくるように思えていた。そこにはハイテンションな自分がいて、友達もビックリするくらいだったが、場を盛り上げることが悪いわけではない。今までに味わったことのない「自分が中心」という世界を味わえて、完全に有頂天になっていた。
実際に百合子はあまりアルコールを飲むことはない。大学時代に合コンでビールを飲んだが、その時にすぐに気分が悪くなって、途中からしばらくダウンしていた。その時、かすかに聞こえてきた会話に、
「彼女、引き立て役なのに、こんなに早く酔い潰れちゃったら、何にもならないじゃない」
「シッ、聞こえるわよ」
辛口なくせに口が軽いという、どうしようもない人の隣になってしまったことも百合子の運が悪いところでもあった。聞こえるわけがないと思ったのか、それほど百合子は酔い潰れていたのだろう。
涙は流れなかった。その代わり、酔いは一気に覚め、耳たぶまで真っ赤になるほど、血が逆流するかと思うほど、恥ずかしさで眠っている場合ではなくなってしまっていた。早くその場から立ち去りたいという思いと、動けない自分に苛立ちを覚え、二度とこんな場面に居合わせたくないという思いでいっぱいだった。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次