短編集70(過去作品)
桜井という男が分からないと思ったのは、ストーカー行為をしておきながら、まったく表情を変えないところである。百合子が見ていたことを知っていたくせにボーカーフェイスでいられるというのは、どれほど図太い神経をしているというのだろう。そう思うと、あの時にドジったように見えたよろめきも、わざとだったのではないかと疑いたくなるというものだ。
桜井が百合子を見ていたのは別に恋愛感情の行き過ぎからのストーカー行為ではなく、他に何かの理由があったのかも知れない。そう思うと百合子の中で燻っていた桜井という男性の正体が少しずつ分かってくるような気がした。ただ、分かりたくない人のことを分からなければいけない自分に対して、情けなさを感じる百合子だった。
百合子が桜井のことを気にしているうちに、次第に好まざる相手であるような気がしなくなった。毛嫌いしていたはずなのに、なぜか違和感がなくなってくる。それは桜井だけにだけではなく、真里菜にも言えることだった。真里菜に対しても、最初は気持ち悪いイメージがあったが、気になってくるにしたがって、心地よさすら感じるようになった。自分が誰かを気にするということは、それが自分の中で大切な存在になってきているかのようだった。
男と女の違いこそあれ、桜井も真里菜も、どこか百合子自身に似ているところがあるように感じる。桜井が百合子を追いかけていたのは、桜井自身も自分が百合子と似たところがあることに気づき、それがどこから来るのかを知りたかったのではないだろうか。そう考えれば、わざと自分の姿を百合子に気づかせるようにしたことの理由が、分かってくる気がする。
良心というものは人間にだけしかないものだというが、なまじ良心があるために苦しむのも人間だ。それは良心が不完全に作られているからではないかと思うが、では良心というものは誰によって作られたものなのだろう。
神様が作ったのだとすれば、神様には完全な良心が見えているはずだ。それをわざわざ不完全なものとして作ったのは、人間が神様を超えてはいけないという思想からのものである。
このような考えは、しばしば小説やマンガのテーマにされてきた。それだけ人間世界では永遠のテーマとなっているからだろう。人間には男と女が存在し(もちろん、人間だけに限ったことではないが)、お互いの神秘性に惹かれていく。性風俗や性犯罪はその産物の一つであるが、それも知らないことを知りたいという願望によるものでもある。
学生時代に考えたこともなかったことだ。すべてを科学で割り切れると思っていた時期を考えれば。社会人になってどれほど理不尽なことが多かったことか、少しは割り切れないことも考えるようになったが、それでも理路整然とした理論に求めるものは多かった。
人間の良心がどのようなものかを考えることが多くなった百合子は、ちょうど桜井にストーカー行為をされた時に考えていたのが、良心についてだったことを、しばらく意識していなかった。忘れていたわけではないが、意識して思い出そうとしなかったのではないかと思えてきた。
――無意識だと思っていることにも意識的なものが潜在的に含まれているんだ――
というような思いが百合子の中に渦巻いていた。
ちょうどその時に桜井の足元から延びていた影の中に、良心というものが含まれているのかというのを意識していたように思う。その意識の答えが今なら分かるような気がする。
――桜井には、私が考えの及んでいない良心があるに違いない――
と感じるのだった……。
憎みたる
相手の気持ち理解でき
見失いたる彷徨いいずこへ
自分ばかりをターゲットに「苛め」を繰り返していた江崎課長とは、そろそろ二年近く、こんな状況が続いていた。
最初の頃は会社に来るのが恐ろしく、毎日が憂鬱だったが。数ヶ月経つと、同じ憂鬱でも、身体が動かなくなってきた。精神的に病んでいるのが分かってきたのは、その少し前で、毎日があっという間に過ぎることを感じ始めてからだった。
「何もしたくない」
という感覚があるのであればまだしも、身体が動かない、つまりは、何もできなくなってしまったのだ。朝起きて、顔を洗うことも、歯を磨くことも、何もできない時期があったくらいで、化粧を施すなどできるはずもなく、スッピンで会社に出掛けたものだ。短い期間であったが、気づいた人にどのように思われたことだろう。
さすがに朝の化粧を施すくらいまではすぐに回復したが、その後に今度は欝状態が襲ってきた。欝のせいだとは言い切れないが、仕事をしていても目の前が急に暗くなり、字が見えなくなる。まるでクモの巣が掛かったかのような放射状の線が見え、そのうちに見えるようになると、今度は激しい頭痛と吐き気に襲われるのだった。
会社の近くの外科に行ってみると、
「そういう人は結構多いですよ。パソコンのモニターを長時間見続けている人などに多く見られます。一種の職業病ですね」
と言われて、薬をもらって、リハビリに通った。サラリーマンよりもOLが多く、デスクワークを主に仕事としている人が掛かるようである。
精神的なことについても聞いてみたが、
「それもあるかも知れませんね」
と、どうにも要領を得なかった。専門外だとどうしても言葉を濁すようで、それも仕方がないことである。
百合子はそんな自分が情けなかった。自分が悪いのであれば仕方がないことだと思うしかないのだろうが、人からの圧力によって引き起こされた鬱状態で身体を壊すなど、納得のいくことではなかった。
しかし、その反面、身体を壊した原因が課長にあるということを、まわりに示したいという思いもあった。まわりに示すことによって、同情を買いたいという思いがあるのだろうか。人によっては弱みを見せたくないという気持ちが強い人もいるが、百合子はそこまで強い女ではなかった。
まず女として可愛げがないではないか。ボーイッシュに見えるだけに見た目と性格が不一致では、まわりに与える印象があまりにも悪いようにも思える。かといって合わせてしまうと本当に身も心も男になってしまいそうで怖いのだった。
ボーイッシュに見えるのはコンプレックスだった。背の高さや胸の大きさなどのコンプレックスとは若干違う。性格を伴うコンプレックスというのは厄介なもので、人が言葉で指摘することがないだけに、何を考えているか分からないところが恐ろしく感じられるのだった。
――課長が私を苛めるのは、ボーイッシュな雰囲気が嫌いだからなのかも知れない――
どうにも虫の好かない人というのは、誰の中にもあるものだ。よほどピタリと嵌った相手でなければ苛めることはおろか、我慢できないほどの虫が好かない相手だと気付きにくいかも知れない。
相性が合わないだけだと考えようとするだろう。なるべく自分の中で波風を立てないようにしたいと思うからだ。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次