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短編集70(過去作品)

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 鬱状態の本当の怖さは、陥ってすぐではなく、自分が鬱状態に入り込んでいることを自覚できる時になって襲ってくる、逃げることのできない感覚であった。
 百合子は今までに桜井を見ていて鬱状態に陥ったことがあった。桜井の視線を感じたことは今に始まったことではなく、彼が入社してきてから、何度となく感じたものだ。ただ、彼が視線を浴びせるのは何も百合子だけではない。
「私も感じたことがあるわ」
 と真里菜も話をしていた。だが、真里菜は感じた視線をそのままパワーをつけて、相手に返すことができる。たいていの男性であれば、萎縮してしまって、それ以上の視線を浴びせることなどできるはずもなかった。
「でも、彼の場合には何度かあるのよね。最初は大したやつだって思ったけど、よく考えてみると、私の視線を理解することもできないほどの人なのかも知れないって思ったの。結構小心者なのかも知れないわね」
 真里菜の言うことも正しいだろう。だが、百合子には桜井が小心者だとはとても思えない。挙動不審でドジなところがある男は、百合子の経験上、小心者というのとは少し違う気がするのだった。
 最近、真里菜が桜井を気にしていることに気が付いた。百合子に対しての想いとは別に、そして男性として見ている目がそこにあることを、百合子は気が付いた。
――どうして?
 真里菜に限って、そんなことはないだろうと高をくくっていた。百合子に油断があったのかも知れない。ただ、それにしても、桜井に気があるというのは、どういうことなのかと、百合子は考えていた。
 真里菜がレズビアンなのは確かなことで、男性に興味を持つとすれば、普通の女の子が好きになるのとは少し違ったタイプであろうとは思っていた。レズビアンでも、男性に興味をまったく持たないとは思っていなかったからだ。
 だが、その相手が桜井だというのは、意外中の意外。想定外もいいところだった。
――桜井は、真里菜の気持ちを分かっているのだろうか?
 桜井の挙動不審は相変わらずである。挙動不審といっても、パターンのようなものがある。挙動不審の中でも彼の場合は、それを貫いている。本人に意識があるかどうかは分からないが、真里菜にはそんな彼のパターンが見えているのかも知れない。百合子に見えているのとは違った方向からである。
 桜井という男を真里菜が意識していることを、どうして百合子にも分かったのだろう?
 百合子の中に、真里菜に対してのものか、桜井に対しての感情のどちらかに、行き過ぎたものがあるからなのかも知れない。その二つは決して同居しない。必ずどちらかだけなのだ。真里菜と桜井、そして百合子を結ぶ線は、トライアングルを形成することなどできないのである。
 それぞれの個性が強すぎて、交錯するものもなく、結びつくものも全体としては見えてこない、ただ、その中心にいるのが当の百合子であることは、自分自身でも分かっているが、認めたくないというのが本音だった。
 三すくみという言葉を聞いたことがある。
「ヘビはカエルを飲み込み、カエルはナメクジを飲む、しかし、ナメクジはヘビには強い」
 というもので、それぞれを見ると強弱が歴然なのだが、全体で見ると、身動きの取れない関係のことである。
 桜井に見られてしまったかも知れない女として一番恥かしい場面。恥かしいはずの行為に感じてしまい、恍惚の表情を浮かべている自分を思い浮かべると、顔から火が出るようだ。
――もし見られていたのが、真里菜だったら――
 と思わないわけでもなかった、真里菜に見られていたとしたら、あの時の心境からすれば、ひょっとすると、真里菜に見せつけていたかも知れない。
――これが本当のオンナの悦びの表情なのよ――
 と言わんばかりに見せつけていたに違いない。それは、自分を男方として見られたくないというささやかな抵抗と、真里菜のオンナに対しての部分に対する挑戦だったのではないだろうか。
 それなのに見られた相手が桜井。相手としては最悪である。挙動不審でドジなやつにどうして見られなければならないのか、そして何よりも気になるのは、桜井が百合子を見て何を感じたかということである。
 あの時の電車の中では中途半端であった。最後までいけなかったことが百合子の身体に火をつけた。状況が状況だっただけに、中途半端な高ぶりが、いつまでも残ってしまった。ただ、嫌な感じで残ったわけではない。どこか熱い身体が徐々に冷えていき、ちょうどいいところで止まってくれた。
 身体に残った余韻は、そのまま快感となって跳ね返ってくる。快感は、リズムを保ち、強弱をつけて、波のように襲い掛かってくる。
「想像することが現実よりも淫靡だ」
 と言っていた人がいたが、まさにその時の心境だった。身体の熱くなっている部分に栓をされたかのような快感は、気だるさを誘う。気だるさは幼い頃に感じたように思った満足感に近いものを与えてくれ、子供の頃に分からなかった満足感を完結させてくれたことが、さらに悦びを掻きたてる。
 幼い頃の満足感、満たされなかった満足感、それは邪魔が入ったからだった。友達と公園で遊んで一人残った公園で、夕日を見ながら佇んでいるのが好きだった百合子だったが、ある日、日ごろから虫が好かないと思っていた男の子が急に現れ、話しかけてきた。他愛もない話の中に、自慢話が混じるという、最低最悪の話に、返事を返すこともバカらしく、聞いているしかなかった百合子は、その男の子を卒業するまで毛嫌いしていた。その男の子に行動パターンが似ているのが桜井だったのだ。
 自分の大切な時間を邪魔されたような気がした。十年以上の年月を遡り、百合子は気だるさの中に感じた快感と、その後に襲ってきた嫌悪感を交錯させて、憎悪と羞恥心の入り混じったおかしな感覚に陥ったのだ。
 羞恥心はすぐに消えた。その瞬間最高の羞恥心を感じ、快感が覚めはじめると一気に羞恥心は消えてしまうのだ。だから、最初は羞恥心を感じたことすら忘れてしまっていたが、羞恥心を包んでいるオブラートに気付くことで、羞恥心の存在を思い出した。
 もし、羞恥心の存在を思い出さなければ、きっと憎悪もただ憎いだけの気持ちではないことに気付かなかっただろう。触られて感じたことへの羞恥心ではなく、見られていたことに感じた羞恥心、そこに桜井に対しての憎悪の想いが働いた。
――あんなやつに見られなければ、羞恥心は恥じらいのままに封印されたのに――
 と思うからだ。
 思い出してしまった羞恥心は、自分の中にある淫靡な部分を湧き起こさせた。同じ場面になればもっと大胆になるであろう自分を想像して、気持ちを高揚させる。その思いにあの男は釘を差したのだ。
 彼が何を思ってストーカーをしたのか最初は分からなかったが、その時の百合子の顔が、本当に、
「大人のオンナの顔」
 になっていたからだ。特に普段ボーイッシュな百合子なので、大人のオンナの顔になっていたことで、普段とのギャップに参ってしまっていたとしても不思議ではないことであろう。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次