短編集70(過去作品)
それにもうストーカー行為など、二度としないだろう、彼に開き直るほどの度胸はないと百合子は思うのだった。
翌日会社での彼は明らかに百合子を避けていたが、顔をまともに見ることができないほど焦っているようには見えなかった。もちろん、開き直っている感じもない。少しだけ様子が違うと思う程度で、それ以外は普段と変わらなかった。もっとも、普段自体が百合子から見て、少々挙動不審なところがあるので、少々の違いくらいは、他の人からすれば、かなりの違いにはなるのだった。
「どうしたの? いつもの百合子先輩じゃないみたい」
と後輩の岬真里菜が声を掛けてきた。
同僚の女の子たちとはあまり交流はないが、なぜか二年後輩の真里菜だけは百合子にくっついてくる。なついているというのが一番適切な表現である。
「そんなことはないよ。どうしてそう思うの?」
「だって、百合子先輩の目が潤んでいるのを感じるからですね。でも、それは恍惚の表情ではないように思うんですよ。もっとも恍惚な表情であっても、十分会社の中では不自然なんですけどね」
と言いながら、小悪魔のような笑みを浮かべる。
この笑顔が真里菜の特徴であった。入社してきた時は目立たない大人しい女の子で、自分と似ていると思った百合子だったが、この笑顔を見た瞬間、
――私とは住む世界の違う女性なんだわ――
と思い、自分のテリトリーの外に置くべきだと感じたのだった。
しかし、自分が避けようとすると彼女は、余計に寄ってくる。
「仕事で分からないことがあるんですけど」
と言って、ことあるごとに百合子を頼ってくる。
仕事のことだと言われれば、なかなか避けることもできず、なるべく優しく教えてあげるのだが、
「そうなんですね。やっと分かりました」
彼女くらいであれば、すぐに分かりそうなことを聞いてきて、最後は、そう言いながら、ペロっと舌を出しながら、小悪魔的な笑顔を浮かべる。その笑顔に百合子も笑顔で返すが、種類はまったく違っている。百合子の笑顔は引きつっているのだった。
もしそれをまわりから見ていれば、きっと百合子は、
――ヘビに睨まれたカエル――
に見えるかも知れない。お互いの笑顔はそれだけ開きがあるのだ。想像するだけで気持ち悪く、恐ろしさを感じる。他人事だと思えばどれほど気が楽になることであろうか。
――真里菜が何も知らないと思っていると、痛い目に遭いそうだわ――
と思っていた。なるべく自分の心の奥を見抜かれないようにしないといけないと思うのだが、そう思えば思うほど、ボロが出そうだ。百合子のような女性は、真里菜にとっては恰好の餌食なのかも知れない。
スラッと細身の百合子と違い、真里菜は少しポチャッとした雰囲気が愛らしさを感じさせるのだろう。思ったよりも男性社員に人気があるようだ、あの小悪魔的な笑顔と体型が嵌っているのかも知れない。女の目から見れば厭らしさしか感じないが、男性の目はまた違って見えるのではないだろうか。
悩殺という言葉があるが、彼女には悩殺の素質があると言っていた同僚社員がいた。実はそれが、桜井新吉だったのだ。それを今さらながらに思い出すと、前日までの彼の行動の意味が分からない。彼は百合子とは似ても似つかない真里菜を気に入っていたのではないだろうか。
――好みが変わったのかしら?
あるいは、告白してけんもほろろに断られたのかも知れない。真里菜の性格からすれば、嫌いな男性であれば一刀両断にするであろうし、桜井のような男性を好きなはずもないと思う。この考えはかなりの確率で間違っていないだろう。
桜井はショックをかなりの間引きずって、立ち直るとすれば、今度は女性自体を好きになることはなくなるか、まったく違うタイプの女性を好きになると思える。そうなると、そのターゲットを百合子に向けるというのも十分に考えられる。
しかし、一度こっぴどい失恋をすると、もう告白する勇気など残っていないに違いない。そうなると、ストーカー行為に及んでも仕方がないことではないだろうか。それは百合子の見解であり、いきなり桜井を糾弾することができない理由でもあった。もっとも立場的には圧倒的に有利なのだから、焦る必要などさらさらないというものだ。
百合子の気持ちを知ってか知らずか、真里菜は毎日のように話しかける。
真里菜には、危険な香りがするのだが、その理由の一番は、小悪魔的な笑顔を浮かべ、男性の気を惹こうとしているように見えるのに、彼女の周りに男性の気配を感じないことだった。
「岬さんは、彼氏とかいないの?」
探りを入れるつもりで百合子は聞いてみた。
「いませんよ、そんな人。私にいると思っていたんですか?」
どう見てもいて不思議がないと分かっているだろうに、そういう聞き方をするのは、言葉通り、百合子がどう思っているかが知りたいのかも知れない。
「私はあなたにならいると思っていたのよ」
百合子も、正直に答える。
「やっぱりそう見えるんですね」
少し俯き加減で、明らかに残念だという表情だ。他の人には決して見せようとしない表情を、百合子にだけは、隠すことなく見せるのだった。
そのことが何を意味しているのか、百合子にもすぐには分からなかった。しかし、望んでいないにも関わらず、なついてくる真里菜を見ていると、真里菜の身体が、何かを求めているように思えてならなかった。
――この娘、男性よりも女性の方が……
それ以上想像するのが怖かった。
ただそう思うと、真里菜がどうして百合子に近寄ってくるのか分からなかった。それはまだ百合子が女性同士の世界を知らないからであって、女性同士の世界でも、それぞれに「役割」があることに気付けば、百合子の何を求めているかが分かるというものだ。
ここでも百合子の臆病なところが顔を出す。調べれば女性同士のことも理解できないこともないのだろうが、
――自分とは世界が違う――
と、最初に感じた思いが、またしても頭によみがえり、結局詳しいことは分からずに漠然と納得するだけだった。
真里菜とは、会社の中でだけのことなので、あまり意識はしないが、桜井に関してはそうもいかない。優位であるとはいえ、「もしも」がありえないわけではない。なるべく刺激しないようにするのが一番だった。
それにしても、悪びれた様子がないのは気になった。仕事もいつものようにこなし、百合子に対しての後ろめたさは感じられない。むしろ、今まで会社ではなかった露骨な視線を感じるようになり、気持ち悪さを覚えたくらいだ。会社内の空気が百合子と桜井の間だけ重苦しく感じられた。
自分たちの間に重苦しい空気を感じると、今度は、他の空気の重さの違いも感じるようになってきた。それは今まで会社を「仕事をするためだけの場所」としてしか見えていなかったからだろう。それでも重苦しさは、仕事の立場や利害関係、あるいは上下関係に大きな影響を受けていることは一目瞭然だったのだ。
そんな中、一つ上の先輩と、江崎課長の間の空気が微妙に重たいのを感じた。それは百合子と江崎課長の空気の重さとはまた違うものだった。事実、課長が先輩に対して辛く当たったことはない。どちらかというと、お互いにあまり意識していない雰囲気だった。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次