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短編集70(過去作品)

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 普段なら女性専用車両に乗るのだが、その日は目の前に来た電車に思わず乗り込んでしまったため、女性専用ではない車両となった。むせ返るような熱気が鼻を衝く。女性専用車両の方がむせ返るような匂いがきついかも知れないが、百合子は慣れてしまっていたので、そこまで感じなかった。だが、そこに男性の汗や体臭が混じって来れば、何とも言えない複雑な臭気を漂わせていた。
 ただ、どこか懐かしさも感じる。大人の男性の匂いを感じたからだ。幼い頃に感じた父親の匂い、中学生になった頃から、毛嫌いするようになった匂いであった。
 百合子の前に一人の男性が張り付いている。年齢的には四十代であろうか。思わず課長を思わせるイメージに、萎縮してしまった百合子だった。
 相手の男性も、最初はラッシュにウンザリしながら、自分の立ち位置を確保するのに必死で、まわりを見る余裕などなかったようだが、電車の揺れと、それに伴ったまわりからの体重という圧力にも慣れてきたようで、車内を見渡すようになっていた。
 背がすらっと高く、頭一つだけラッシュの山から抜け出していることで、まわりを見るのは容易なようだった。
 そのせいか、目の前にいる百合子には意識がまわっていなかった。視線は適度な遠くを見つめている。百合子を気にしようとするならば、視線をぐっと下げなければいけないからだった。
 その男性の意識が百合子に向いたのは、次の駅に着いた頃だった。車内の混み具合は相変わらずで、扉近くの乗客が降りても、同じくらいの人が乗ってくるのだから、全体的な変化は見られない。
 百合子は男の視線にハッとして、顔を下に向けた。顔は上気し、耳まで真っ赤になっているのではないかと思うほどに熱かった。耳はまるで脈を打っているかと思うほど、ズキズキしていたのだ。
 百合子はちょうど、正面の男性の身体に密着していた。男が百合子を意識していると感じた時、男性の身体に変化が見られた。それは男性の厭らしい感情に直接結びつくもので、その男性が自分を意識したと確信したのも、男の身体に変化が見られたからだった。
――嫌だわ――
 それは男に対してではなく、百合子自身に感じたことだった。男の身体が反応したことに、心の底で悦びを感じている自分を発見したからだった。
 ただ、大きな後悔も襲ってきた。一時の快楽も、目が覚めてしまえば、大きな後悔となって襲ってくる。
 後悔はまるで波のようだった。高い位置まで上がってくると、重みに耐えられずに前倒しになる。するとそれを知らない後ろの自分は、一度前倒しになった波を奮い起こす。後ろを見ないと不安なくせに、押し寄せてくるものに抑えが利かなくなってしまうのだ。今までに何度となくした後悔。その都度で完結していたが、それも後ろから押されたことで見えなくなっていることもあるだろう。
 そんな百合子を見ていた男性がいた。
 そんなことはまったく知らない百合子は、その時から自分に迫ってくる恐怖には漠然としたものを感じていた。自分が読んでいる恋愛小説さながらの恐怖が、知らないだけで自分のまわりで渦巻いているのだ。
 恐怖という言葉そのものが漠然としたものである。恐怖ほど漠然としたものが形になりにくいものはないだろう。しかも形になりにくいがゆえに、漠然としすぎて範囲も広い。恐怖という言葉の本当の恐ろしさは、その漠然としたものであり、知らないということほど、恐ろしい思いにさせられるものはないに違いない。
 ある日、上司に無理やりに連れて行かれたスナック。その帰り道だったのだが、後ろから追いかけてくる人影を感じた。かすかな音を一度感じただけで、風の音として片づければそれでよかったはずのことである。
 後ろを振り返ると、遠くしか見えない自分を感じた。
――目の前にいるはずなどない――
 という感覚があるからで、少しでも明るければ、目の前も見ていただろう。裏を返すと目の前を見ないのは、暗い夜道で目の前に人がいれば、どれほど怖いものだろうかという思いが、遠くしか見せないのだ。
 恐怖を感じると、何も考えられなくなる。考えられないというよりも、考えたくないというのが正直な気持ちで、本当は嫌というほど考えている。ただ、それは年を取れば取るほど、考えているということを表に出したくないもので、表に出すことによって、自分がいつも何かに怯えていることを知られたくないのだ。
 それは怖がりだということを知られたくないからではなく、遠くしか見ない自分の性格を知られたくないという思いが強いのだ、
 電車で奇妙な興奮に襲われて数日後くらいから、百合子は誰かに見られている。
 その視線は、鋭いもので、見られていることの恐ろしさを初めて知った。その視線を強く感じるのは、家の近くまで来た時であった。人ごみではあまり気にならないのだが、電車を降りて、家の近くの住宅街あたりまで来ると、途端に感じるようになった。
 百合子の家は住宅街にあり、親と同居している。まだ大学生の弟が一緒に住んでいるが、友達のところを泊まり歩くのが楽しいらしく、ほとんど家に帰ってこなかった。その弟がたまに帰ってきて、家の近くでちょうど鉢合わせになったことがあったが、その時に、
「姉ちゃん、気を付けないと、男の人が後ろをつけてたぞ」
 と言われた。
「いやね。そんなことないわよ」
 と答えたが、自分の予感を改めて人に言われると、急にゾッとした気分になった。漠然とした思いだったので、それがハッキリとした形になると、背筋は寒くなったが、顔はカッと熱くなった。
 どんな男だったのか聞きたかったが、聞くのも怖かった。知っておけば少しは自己防衛に役立つのだろうが、それが恐ろしかった。百合子は、それほど臆病な性格だったのだ。
 しかし、逆に開き直りもあった。ハッキリと弟からその存在を知らされた時は怖かったが、何日もじっと後ろからついてくるだけで何もできない相手だという気持ちもあったからだ。そんな男が何をするか分からないという性格であることなど、知る由もなかったのだ。
 それでも安心する時が来たのは、それからすぐのことだった。私をつけてきている男性は、思ったよりもドジなようで、それまで後ろを振り返るのが怖かった百合子が急に振り返ると、慌てたように隠れた、明らかにその男は、自分が不審者であると、公外したようなものだ。
 その男には見覚えがあった。同じ課の男性で、見覚えどころか、毎日同じ事務所にいて、あいさつ程度は最低でも交わす仲間だったのだ。
――なるほど、彼なら私の前に現れたり、危険なことをするような人じゃないわ――
 軽蔑こそしていなかったが、男として百合子が感じる相手でもなかった。せめて影に隠れて女の尻を追いかける程度の男なのだろう。
 ただ、女の尻すら追いかけるほどの度胸もないと思っていた相手なので、危険がないのは分かったが、ストーカー行為までできるほどだとは少し意外だった。捕まえてとっちめてやろうかと思ったが、その時はそのままにしておいて、翌日以降が楽しみであった。
 優位は明らかに百合子にあった。同僚の男性社員は名前を桜井新吉と言ったが、明日会社でどんな顔をするかが楽しみだった。
――まともに顔も見れないに違いないわ――
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次