短編集70(過去作品)
「ありがとう。佐竹さんにそう言ってもらえると一番安心するのよ。佐竹さんと知り合えて本当に嬉しいと思っているわ」
私はこみ上げてくる涙を抑えられなかった。あまり涙など流した記憶が最近はないだけに、涙腺が緩んできたのは、年を取ってしまったのかと思うほどだった。学生は卒業したが、社会人にはなりきっていない中途半端な状況だが、スナックに勤めていると、それなりに人のことは分かってくる。それに話だけでも様々な人生の紆余曲折を耳にする。自然と無意識にまるで自分のことのように考えてしまうようになってしまうのも仕方がないことであった。
私は涙を拭おうともせずに、佐竹さんを見つめた。いつものような笑顔がそこにあり、私を安心させてくれる。佐竹さんという人の大きさを本当に感じるのは、そんな時だったのだ。
――これが私の佐竹さんなんだわ――
という思いを拭い去ることはできなかった。
佐竹さんはさりげなく彼女と会ってくれたようだ。それは佐竹さんとの約束で、会う時は彼女と二人で会う。もちろん、それ以上の仲になることはないという約束でであった。そして、会う場所も、会い方も佐竹さんにお任せだった。
「心配いらないよ。彼女の身体には触れたりしないからね」
私は佐竹さんを信頼しているので、信じ切っている。もっとも、一度きりなら、彼女と何かあってもいいとまで思ったが、もし私の思い過ごしであるならば、弟の勇作に悪いという気持ちが強かった。したがって、私は黙って佐竹さんの言うことを聞くだけなのだ。
数日後、佐竹さんと会った。私は内心、ドキドキしていた、信頼しているとはいえ、一緒にいれば信頼が途切れることはないが、数日も会わないでいると、どうしても次第に不安になってくるもので、佐竹さんが私から遠ざかっていくのではないかという錯覚に囚われたりもしたのだ。
「彼女に会ってみたよ」
「どうでした?」
「みゆきという女性は、確かに気が強いところもあり、しおりが懸念するのも分からなくはないが、そこまで心配する必要はないんじゃないかな? 気が強いというだけで、むしろ弟さんが気の強い女性に対して、どうかという程度で、不安に感じることはないと思うんだ」
佐竹さんの言葉に私は脱力感を覚え、立っているのがやっとだった。ホッとした気持ちもあるが、あまりにも平凡すぎるような返事に、拍子抜けしたというのが本音だった。もっと深いところを見てきてほしいと思っていたのに、そのことには触れようとしない。それだけに拍子抜けが不安に変わってこないとは言い切れないのではないだろうか。
さらに佐竹さんは続けた。
「でもね、彼女は相手の男次第で変わるところがあるかも知れないね。アジサイのように色が変わってくるかも知れない。気が強い女性の中には、男次第で変わる女性がいないこともない。でも、それは女性であれば、少なからず誰もが持っているものだと思う、しおりだって、自分にそれを感じていると思うんだ。しおりがみゆきという女性に自分に似たところを見たのだとすれば、そこだったんじゃないかと思うんだ。しおりの場合、相手の気になるところを見つけると、それを自分に置き換えてみようとするだろう? その時に自分の中でどんなに小さなことであっても、少しでも存在していれば、相手と同じ大きさだと錯覚し、あたかも自分の悪い性格だと思い込み、自分で不安を抱え込む。でも、それこそが、しおりの取り越し苦労という意味では、損な性格かも知れないね」
佐竹さんの言っている通りだ。私の性格をさすがに熟知していると思った。優しく理詰めで説明されると、次第に安心感がよみがえってくるのだった。
佐竹さんの話を聞いていると、自分がいつも計算ばかりしていた時期を思い出す。それは損なことが多いと言われる性格の形成に繋がったのかも知れない。
最近の私は、あまり計算をしなくなった。考え事をしている時は多いのだが、その時に何を考えているのか、自分でも分からなくなる。
――私の代わりに、佐竹さんが計算をしてくれている――
佐竹さんの理詰めの説明を聞いていると、いつも私が頭の中で計算している時のイメージが浮かんでくる。
計算しているというよりも、論理で崩していくと言った方がいいだろう。私が加算方式であるなら。佐竹さんの考え方は。減算方式と言っていい。
私は減算方式はあまり好きではない。何もないところから新しいものを作り出すことが好きな私は数学も同じである。一つ一つ新しいものを見つけていく時の喜びは、何にも代えがたいものだと思っていた。
佐竹さんの減算方式は、私が考えている減算方式の常識を覆した。「大人の考え」であった。
私はしないが、佐竹さんは、碁も打つし、将棋も打つ。
「将棋や碁の一番隙のない布陣というのは、最初に並べた布陣なんだよ。手を勧めるごとに、そこに隙ができる。つまりは、百パーセントが九十五パーセントになって、九十パーセントになっていく。それがとのやり取りで、いかにこちらを優位にするかというのが問題になる。自分だけの問題ではなく、相手があることだ。いかに勝ち時を見つけるかというのが、勝負の分かれ目さ」
と話していた。
なるほど、最初に並べる位置にはそういう秘密があったのだ。マス目の数にも駒の動きにも、それぞれに理由がある。それを考えると、戦術一つ一つに歴史の重みを感じさせられる。
佐竹さんに弟を合わせるのは、さすがに気が引けた。なるべくなら、このまま一生会うことのない人たちであってほしい。考えてみれば、自分の一番近くにいる人の、すぐそばにいる人でさえ見えていないことが多い。見えているのだが、見えているという感覚がない。
それはまるで道端にある路傍の石のようである。いつもそこにあって、動くことのない石は、
――あって当然――
という意識を持っていることすら分からない。目が合っているのに、その人の存在を意識することがない。お互いに笑顔を見せたとしても、それは、ただの条件反射でしかない。
――佐竹さんに話せば、母の死に近づけるかも知れない――
と思ったことがあった。
佐竹さんには母親が、私が中学生の頃に自殺したという話をしたことはあったが、見ず知らずの人と心中をしたのだということは話していない。
もっとも、店で数回しか会ったことのない佐竹さんにどうして母の話をしようと思ったのか、私でも不思議だった。佐竹さんは、私が話す時、真剣に私の目を見てくれる。黙っているのが自分の中で辛くなるのだった。
最後まで話す必要はない。佐竹さんなら少し話しただけでも、ほとんどのことを察してくれる人だった。だが、まさか母の死についてここまでミステリアスなことがあるなど、思ってもみないはずである。
相手の心を読める人というのは、二種類存在しているのではないかと思う。人を見ただけですぐに分かってしまう、魔術師か占い師か、あるいは祈祷師に代表されるような特殊能力を持った超能力者か、人の話を聞きながら、相手の気持ちを察することのできる、心理学などに精通した人であろう。佐竹さんは、明らかに後者である。
しかも佐竹さんの場合には、理詰めが得意なので、話を聞いて、相手の性格を分析することで心を読めるのであろう。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次