短編集70(過去作品)
佐竹さんの言っていることは正論にも聞こえるが、それではあまりにも私と彼の関係って、そんなにひどいものなのかと思わされてしまう。
「彼ってそんな人なのかな?」
と言った時、
「だから、僕も見てみたくなったのさ。果たしてしおりにふさわしい彼なのかどうなのか、私の目で見てみようと思ってね。私だって聖人君子ではないので、私の目がすべてを見通せるわけではないと思うけど、これでも人を見る目はあるつもりでいるんだ。参考にはなると思うよ」
人を見る目があるということを、面と向かって言われたのは初めてである。私は人を見る目は、自分ではこれっぽちもないと思っていた。だが、佐竹さんと知り合って、
――この人だけは、人を見る目のない私が選んだ最高の人なのだ――
と思えた。
それは今までもそうだったし、これから自分の前に現れる人の中でも佐竹さんほどの人はいないのではないかと思えるほどだった。
「ははは、そんなことはないさ。しおりの人生はまだまだこれからさ」
と佐竹さんに話せば、そう言ってくれるだろうと思っている。
最近私が感じているのは、
――佐竹さんのことなら、いろいろ分かるのに、彼のことは、ほとんど分からない――
という思いだった。最初は、神秘的なところのある佐竹さんに魅力を感じていたはずで、今彼のことがいろいろ分かってきていても、相変わらず佐竹さんへの魅力が色褪せることはない。余計に神秘的な感じがするくらいで、
――分かれば分かるほど、彼にはさらにその奥にも神秘の扉があり、果てしないものがあるのかも知れない――
と思えたのだ。
佐竹さんのことが分かってくると、今度は彼のことが分からなくなってきた。分からないことで神秘的なイメージが植え付けられるわけではなく、ただ自分の想定外なところが増えてきた気がしたのだ。
――私って、佐竹さんに洗脳されたのかしら?
と思うほど佐竹さんのことが頭の中で膨れ上がり、他の人の入る余地がないほどになってしまったのだろうか。
私は、ある日夢を見た。夢の中に鏡があった。鏡に映った私がニッコリと微笑んでいる。間違いなく私なのに、何かが違う。
鏡に映った私の斜め後ろには、佐竹さんが佇んでいた。その表情はいつもの笑顔ではなく、無表情である。私は微笑んでいるのに、佐竹さんが無表情などということが、かつてあっただろうか? 実際、無表情な佐竹さんの顔を見たこともなかったように思う。
――これって本当に佐竹さんなの?
と思うほどの表情に私は明らかに怯えを感じていた。
いや、私が怯えていたのは佐竹さんに対してではない。鏡に映っている自分にだった。ニッコリと微笑んだ表情。それは鏡を見ている自分のその時の心境ではないからだった。
「あなたは誰なの?」
と怯えのために声にならない声を必死で押し出してみたが、相手は笑顔を崩すことなくこちらを見ている。明らかに優劣は決していたのだ。もちろん、相手は答えるわけなどない。私も答えを期待しているわけではない。応えられると、どう反応していいか分かるはずもなく、先を読む余裕などあるはずもない。
――佐竹さんのことなら、いろいろ分かる。彼のことが分からなくなってきた――
という思いを抱いたまま、眠りに就いた時の夢だった。夢が私に何を言いたいのか、自分なりに考えてみた。
――あなたは、あなた自身のことが一番分からないのよ――
そう、鏡の中の私が語り掛けているように思えてならなかった。
冷静に考えれば、
――分かっているつもりで一番分からないことというのは、自分のことなのだ――
ということに気付かなかった私は、しばらくの間、夢を忘れられずに、何か言い知れぬ不安を抱えてしまうことになってしまったのである。
透明の
鏡の中に優劣の
不気味笑顔に表情なかりて
佐竹さんへの想いは私の中ではち切れんばかりになっていた。私が勝手に膨張させているのかも知れないが、それが佐竹さんの洗脳ではないかという思いも、心の奥にはあった。ここまで人のことを信用してしまったのは、最初に感じた神秘性は相手を分からないところだったはずなのに、分かってきても、神秘性が変わらないことだった。それも佐竹さんのことを分かろうとして分かったわけではない。あくまでも自然な気持ちが佐竹さんの中に入り込んで、帰ってきた答えだったに違いない。
洗脳されたのならそれでもいいと私は思う。好きになった人に心を奪われるのであれば、それも女性の本望ではないだろうか。ただ、引っかかっているのは、母のことだった。私と母は性格的に似ていると今でも私は思っている。母がなぜ付き合っている相手ではない人を心中の相手に選んだのか。それがずっと引っかかっていたのである。
精神的には、喉の奥に引っかかっている気持ちがあるのだが、それが何なのか分からない。まるで魚の小骨が引っかかったような気持ちだ。気にしないわけにはいかないが、小さいだけに取ることができない。何とか水を飲んだり、食べ物を流し込んだりしてみるのだが、やればやるほど、深みに嵌ってしまいそうだった。結局最後は諦めざるおえない。つまり、疲れ果てて、気にならなくなったというのが結末だった。
私が母に対する感情も、魚の小骨に似ていた。やはり最後は考えることに疲れてやめてしまう。考えていたことに対して苦笑するくらいであった。
佐竹さんを見ていて、父親を想う気持ちに似ているという感覚はウソではない。元々年上に憧れがある私だったが、それを父親への反動だと思っていたのも事実だ。しかし、だからといって父親の代わりなどという気持ちではない。(最初はそうだったのかも知れないが)
お店で最初に抱いた思いはどうしても父親とかぶっていた。人を好きになるにはそれなりの理由がいるというが、それは間違いではないだろう。だが、それが勘違いであったり、第一印象とはかけ離れた気持ちが好きだと思った瞬間に浮かんでいたりすることもあるのではないだろうか。私の場合は明らかに第一印象とはかけ離れていた。「神秘的」という一言を取ってもそうであろう。
佐竹さんと彼との「面会」は滞りなく終わった。
「とりあえず彼と付き合っていてもいいんじゃないか?」
と、かなり曖昧な返答だった。それは佐竹さんらしい答えでもあったが、その表情には安心感が見えていた。ハッキリといいも悪いも言えない相手、安心感を示すことで、彼が決して悪い相手ではないということを示していた。ただ、それ以上は言わない。きっと自分が私の気持ちを握っているという後ろめたい気持ちがあるからなのかも知れないが、私としては、佐竹さんに、そんな後ろめたさは持ってほしくなかった。だが、それを言えるはずもなく、ただ佐竹さんの表情から、私なりに汲み取るしかないのだ。
――佐竹さんのことが分かるようになっていてよかった――
言葉に出さずともツーカーで気持ちが分かり合えるというのは、私と佐竹さんのような関係を言うのかも知れない。結婚していて夫婦になった相手に対しては、むしろ自分の気持ちをしっかり示さなければいけないだろう。
「夫婦の間の会話って、本当に大切なものなのよね」
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次