短編集70(過去作品)
「ねえちゃん、今度の土曜日は時間あるかい?」
弟の勇作から連絡が入った。
勇作は大学の一年生。私よりも成績優秀な勇作は、国立大学にストレートで合格した自慢の弟だった。高校時代には勉強ばかりしかしていなかったので、大学に入るとどうなるか気になっていたが、友達も数人でき、必要以上に友達を増やさないところは私の考えと似ていた。
――やっぱり私の弟だわ――
と、血の繋がりに感心してしまったが、すぐに血の繋がりを考えてしまったことで、両親を思い浮かべた自分に嫌悪を感じた。
――まだまだ親のトラウマを引きずったままなんだわ――
子供時代の悲惨だった頃を思うとそれも仕方がないと思うが、いい加減運命を受け止めなければいけないという思いもある。
――運命って何なのかしら?
逆らうことのできないものなのか。それとも受け入れて理解すれば、自分でも変えることのできるものなのか、まずは受け入れないことには始まらないと思いながらも、過酷な運命を受け入れるのは躊躇いがある。今まで築いてきた自分の人生を一度壊してしまわなければいけないと思うからだった。
培ってきたものを壊すのは度胸がいる。自分に自信があればあるほど戸惑いがあるはずだ。自分に対しての自信は、それまでに培ってきたものによって違ってくると思えるからで、これまでの足跡があるから、前を向いて歩いていけるのだ。その時々での選択や判断に対しての自信は、それまで培ってきたものを元に生まれるものだからである。
弟の勇作は、時々何を考えているのか分からない時がある。
子供の頃から数学や算数のようなものばかりを考えてきたので、似たようなことを考えている人がいれば、分かるのだ。ということは、勇作が考えていることは、少なくとも数字などのようなものではないということだ。血が繋がっていても、さすがには分からない。
いや、血が繋がっているからこそ分からないのではないだろうか。他人になら見えることでも肉親だと見えないこともある。それは肉親に対しては微妙に他人に対してのものと態度が変わるからなのだろう。それは無意識なもので、ふとしたことでそのことを気付かされる。だが、気付いてもそのことを考え続けなければ、その瞬間にすぐに忘れてしまう。考えたことだけは覚えていても、内容まではまったく覚えていないものだ。
「土曜日は夕方からお仕事なんだけど、昼間はいいわよ」
夕方からはスナックで仕事だった。週に四回入っていて、曜日は基本的に決まっていないが、土曜日だけはいつも入るようになっていた。私も別に土曜日だから何かあるというわけでもないので、快く引き受けているので、必然的に私と会いたいお客さんは、土曜日に集中したりする。
他の店はどうか分からないが、うちの店の土曜日は九時以降が忙しくなる。私目当てのお客さんが単独で現れ、最近では、お客さん同士が仲良くなったりしていた。そのおかげで、私も一人一人相手をすることもなく、それぞれの話題に対応しながら話をできるので、話題も膨らむし、盛り上がった時間を作ることができる。お客さんも楽しんでくれるし、私も苦労をしないで済むのだった。
土曜日は佐竹さんが来る日ではなかった。家庭サービスと言っていたが、佐竹さんの孤独を勘違いしていた私は、気にしないわけにはいかなかった。
――嫌な思いをしているんじゃないかしら――
と思わずにはいられない。佐竹さんも家族サービスをしながら、私のことを絶えず想っていてくれているに違いないと思うのだった。
平日の昼間、お店に入る日は、開店準備を私が行うことが多かった。だが、土曜日はいつも私が入るので、開店準備は私以外のその日に入る女の子が当番でしてくれるようになっていた。おかげで土曜日の昼間はゆっくりできるのだった。
弟の勇作もクラシックが好きだった。お互いに賑やかなところが苦手で、私がスナックでアルバイトすると決まった時、一番心配してくれたのは弟だった。土曜日の待ち合わせも弟の大学近くにあるクラシック喫茶で、佐竹さんと最初の夜となったあの日の出会いを思い出さないわけにはいかなかった。
もちろん、同じ店ではない。佐竹さんと最初に会った店よりも、少し店内は明るい。ただソファーは深くなっていて、腰を下ろすと、身体が椅子に埋もれてしまいそうになるのだった。
学生が多く、中には勉強している人もいる。癒しを求めてやってくる人もいれば、勉強する環境として利用している人もいる。私も弟ももっぱら癒しを求めてだけの利用であった。勉強する雰囲気とは少し違っていた。きっとここで勉強している人は、静かすぎては却って気が散って勉強ができない人なのかも知れない。
私も弟も確かに静かすぎると勉強できない。図書館などのような広すぎる空間では、静寂が耳鳴りを誘う。勉強しようとしても耳鳴りが邪魔をして、集中できない。ついつい席を外して、うろうろしかねないのだった。
ファミレスで勉強しているのもよく見かけるが、私にはできなかった。家にいても気が散る時はあるのだが、それでもどこでするよりもマシだった。どこで勉強しようとも気が散るのは仕方がないことだった。
気が散る時は、気分転換のタイミング、時間を決めて休憩することがいい気分転換になる。そんな時に本を読んだりするが、気を付けないと集中しすぎて時間を忘れてしまったり、下手をすると眠くなってしまうのだった。
眠くなった時は仕方がない。私は素直に寝るようにしている。眠たいのを無理に起きていても集中できない。試験勉強している時、徹夜することもあったが、そんな時は最初からそのつもりなのでできるのだ。途中で計画を崩すことはしたくない。そんな時、いつもロクなことがなかったことも、今の自分の教訓になっているのだった。
土曜日になると、前日まで厳しかった残暑も急になりを潜め、だいぶ涼しくなった。風が心地よく、日差しが辛くなかった。
前日までは容赦なく降り注ぐ日差しに思わず顔をしかめてしまっていた。暑すぎて顔をしかめていることに、たまに気付く程度だった。十月になるというのにここまでの残暑は、十数年に一度の異常気象だったということだ。
比較的心地よく昼の時間を余裕で過ごせそうな気がした私は、勇作と約束した午後四時よりも二十分も前に約束のクラシック喫茶に入った。途中大学生の集団が楽しそうに話しながら歩いているのを見ると、就職浪人であることを今さらながら思い知らされたような気がして、複雑な気持ちになった。
――でも、大学時代に戻りたいとは思わないな――
戻ってみたところで運命に逆らえないと思っている私は、結局行きつく先は同じだと思っている。就職浪人というのもその一つだった。
最後に勇作に会ったのは、勇作がまだ高校生の時だった。私は大学生になって一人暮らしを始めたのだが、勇作も同じように大学に入ると、一人暮らしを始めたのだ。これで家族はバラバラになったわけだが、私はこれが本来の姿だと思っている。
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次