短編集70(過去作品)
と思っても、遺伝という逃れられない関係も無視できない。
――相手によって、私も変わるかも知れない――
とも思ったが、遺伝であれば、相手も似たような人を選ぶかも知れない。
父親のような男性というよりも、浮気性な男性という相手を選んでしまうかも知れない。私は嫉妬深い方だと思う。相手の不倫を知ればどうするだろう? 嫉妬に狂うだろうか? それよりも自分が不倫をしてしまうだろう。ここが母とは違うところだ。プライドが高い私は、やられっぱなしは許せないに違いない。
そんな私が今、佐竹さんにも惹かれてしまっているのはどういうことだ。結婚しているわけではないので、不倫とは言わないが、浮気には違いない。しかも、相手はかなりの年上だ。同い年の相手と違って、遊びで終わることができるかどうか、自信がない。
もし、佐竹さんとお付き合いをするようになれば、遊びで済むわけはない。きっと真剣になるだろう。真剣になれば彼とのことは遊びになってしまう? それも考えられないことである。
どちらも真剣なら、不倫とどこが違うというのだろうか。社会的に結婚しているわけではないので、浮気で片づけられるであろうが、私としては浮気で片づけられることは、むしろプライドが傷つけられた気持ちになることだろう。
「やあ、こんなところで会うなんて」
私が目を瞑ってクラシックに入り込んでいた時に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。普段ならすぐに目を開けて相手を確認するのだが、その時はなぜかすぐに目を開けるのを戸惑った。もったいない気がしたのだ。
相手は声を掛けてしまったのを、悪いことしたとでも思ったのか、
「失礼しました」
と言って、バツが悪そうに背筋を曲げてそそくさと去ろうとしたのを、ビックリした私が、
「あの、佐竹さん?」
と相手を分かっているくせに、意地悪っぽく上目づかいに顔を上げた。
「やっぱり君だったんだね」
いつもの笑顔だった。お互いに久しぶりだったのと、初めて違う場所で会うのだという意識はなかったのだ。
「君がクラシックを好きだなんて知らなかったよ」
「高校生の頃にいつも家で聞いてました。一人でいる時はクラシックが一番ですよね」
「どうやら、君とは趣味が合いそうだね」
「私、しおりと言います。よかったら名前で呼んでください」
店以外のところでは、源氏名はやめてほしかった。かといって、いつまでも「君」では他人行儀すぎる。佐竹さんも、源氏名で呼ぶわけにはいかないと思っているのだろう。「君」というのもよそよそしいと思いながら、どう呼んでいいか分からずに困っていたようだ。
クラシックの話に花が咲いた。私はピアノやオルガンのような弦楽器が好きなのに対し、佐竹さんは、クラリネットやサックスなどの吹奏楽器が好きだという。同じ趣味ではないが、自分の考えを主張しながら、相手の意見に耳を傾ける。元は同じクラシックというジャンルが好きなことは共通しているのだから、話題も豊富になってくるというものだ。
佐竹さんにとって私はまるで娘に見られているようだった。実際に娘さんがいるようである。
「今度高校生になるんだけど、もう父親を相手になんてする年じゃないからね。まるで汚いものでも見ているような目だけはやめてほしいんだけど」
と言いながら、バツが悪そうに頭を掻く。佐竹さんはバツが悪そうな表情や雰囲気が実によく似合う。まるで子供のような純粋さは、佐竹さんのそんな素振りから滲み出ているのかも知れない。
それにしても、こんなに優しくて頼りがいのあるお父さんを汚いものでも見るような素振りをする娘とはどんな人なんだろう。学校では目立たない娘なのだろうと私は思った。もし目立つ娘であれば、まわりの視線は痛いほどに感じるはずだ。そんな人が人に、特に自分の父親に汚いものを見るような視線を浴びせるわけがないと思うのだった。視線の痛さを知らない人でなければ、そんなことはできないのだろう。
私は普通の家庭を知らずに育ったから知らないので、その時の佐竹さんのセリフが、半分は「社交辞令」であったことを分からなかった。この言葉で私は佐竹さんに中にあった寂しさを確信したのだ。
実際に佐竹さんには寂しさが潜在していたのは確かだった。だが、その原因を私は誤解したのだ。佐竹さんの寂しさを家族関係だと思ってしまった私は、奥さんともうまくいってないのだと勝手に想像していた。
絶えず一緒にいるような深い仲ではないが、すぐに崩れてしまうような感じでもない。ましてや、離婚などということはありえない。本当は私が入り込む隙間などないはずなのに、元々憎からず思っていた佐竹さんに一度感情を抱いてしまうと、自分でもどうしようもなくなってしまった。
同情ではない。私が感じたのは、
「佐竹さんの本当の気持ちは私にしか分からない。佐竹さんを癒してあげられるのは私だけなのだ」
という思いに駆られた。
こう言ってしまうと私が与えるだけのように聞こえるが、私も佐竹さんに求める癒しも大きなものがあった。ただ与えられたいというよりも、そばにいるだけでいいのだという気持ちが強いことで、私がしてあげたいという思いだけが私の意識の中に残っていたのだ。
佐竹さんは私の気持ちが手に取るように分かるのか、その日私がこのまま帰りたくないという思いを抱いていることに気付いていた。
「二人きりで静かなところに行こうか?」
と誘われた時、胸の高鳴りを抑えるのに必死で、戸惑いを見せる暇もなかった。はしたない女と思われたかも知れないと感じながらも、私はコクリと頭を下げるだけだった。顔から火が出そうなほど真っ赤になった顔を、佐竹さんはニコニコしながら見つめている。
「そんなに、ジロジロ見ないでください」
と苦笑しながら言うと、佐竹さんの顔が満足そうに微笑んでいる。意地悪そうな笑顔だが、私は嫌いではない。ひょっとすると、その顔が一番見たいといつも思っているのかも知れないと感じるのだった。
この日、この場所で出会ったのは、偶然であって偶然ではない。出会うべくして出会ったのだ。この店で出会ってお話をしなければ、佐竹さんに抱かれることはなかったかも知れない。他の人に話すと、
「時間の問題よ」
と言われるかも知れないが、私には感情とタイミングの大切さがなければ、大事な決心はつかないと思っている。確かに時間の問題なのかも知れないが、同じシチュエーションではありえない。最高の形でお互いに求め合うことができたのだと、佐竹さんも感じてくれていると信じている。
ただ、その日、初めて結ばれた佐竹さんと、急接近したのは間違いないが、佐竹さんのことを知れば知るほど、奥深く隠れている部分があることに気付かされる。そこには新鮮さと神秘さが渦巻いた世界であり、私が踏み入っていいものなのかどうか、分からない。――知れば知るほど不安になる――
それが佐竹さんに対しての思いだった。
元々影があると思っているところに、佐竹さんの思いを感じることで、私も自分の奥に人に知られたくないと思っている部分が封印されているのに気付かされるのだった……。
目の前に
平静装い佇みて
鏡のごとく見つめる眼か
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次