短編集70(過去作品)
今の時代は、者が豊富にあり、貧しい人の話題がそれほど上らない。しかし、佐竹さんの時代はというと、貧富の差の激しさが一番の社会問題だった。零細企業は軒並み瞑れ、時代の波が小刻みに押し寄せてくる。ブームと呼ばれるものが出てきては一気に咲き誇り、そしてあっという間に次のブームに飲み込まれてしまう。
次第に社会問題も変わっていき、「いじめ問題」や「バブル崩壊」など、深刻な問題が山積みとなる。
子供の頃には、佐竹さんくらいの世代に生まれなくてよかったと思ったものだ。特に父親の世代あたりは、悲惨だったかも知れない。それでも家を持つことができ、幸せな家庭を築けた時代。大人になって考えれば、その時代の人が羨ましい。
今の時代に家を建てるなどできないことだ。会社でも作業を行うのはパートさんや派遣社員となり、正社員にすべてのツケが回ってくる。給料がいいわけではない。むしろ給料は下がってくる。残業しても手当が出るわけでもなく、ボーナスもない会社だって少なくはない。そう思うと、お先真っ暗になってくるのも仕方がない。
「私だって、就職浪人なんだから」
と言いたいが、佐竹さんに知られたくないという気持ちもあった。甘えれば少しはよくしてくれるかも知れないが、それ以上、佐竹さんの気持ちに近づくことはできない。それにせっかくまた雇ってくれているママさんに迷惑が掛からないとも言えない。お客さんには黙っていてほしいというのは、そういう気持ちがあったのと、店にいるだけで気分転換にもなる。それも目的だったのだ。
特に佐竹さんは、お店で会社の話はしない。この間まで社長さんだなんて知らなかったくらいだ。別に隠しているつもりはないのだろう。それなら私も無理に聞こうとはしない。佐竹さんという人のことが少しずつ分かり始めていることで、ここでの時間と空間が次第に広がってくるのを感じていた。
こんな気持ちになったのは初めてだった。恋愛感情というわけでもない。父親のように慕いたい気持ちはあるが、父の代わりにもしたくはない。時々二人きりでお話するだけで幸せな気分になれる相手、ただ、それだけの人だったはずである。
私は今まで付き合っていた男性に朴訥さと新鮮さを感じていた。佐竹さんは少し違っているが、それでも男としての朴訥さと、新鮮さを感じる。それは私に対して真剣に向き合ってくれていると思っているからであって、正直二人とも好きになった。
彼がまるで子供っぽく思えてきたのも事実で、本当なら佐竹さんの魅力にそのまま委ねられれば、それが一番いいことだと思った。しかし、佐竹さんの情熱と真剣さが却って彼の子供っぽさまで真剣に思わせたのだった。
二股を掛けるなど私にはできないと思っていたが、それをやってのける気分になったのは、私自身、寂しさがこみ上げてきているからなのかも知れない。就職浪人という不安、さらにはスナックでの仕事に対しての将来の不安、それぞれに私の中で消化できないものが渦巻いていたのだ。
彼は卒業後、無事に就職できた。大きな会社ではないが、彼の性格ならちょうどいいかも知れない。就職してすぐの新入社員の毎日は、私と一緒にいる時間が作れないほどの忙しさだった。
「しおりを一人にしてしまうようで申し訳ないが、察してほしいんだ」
と言っていた彼の情けなさそうな表情が目に浮かぶ。
「いいのよ。あなたは、お仕事をしっかりしないとね」
としか言いようがないではないか。私も不安ではあるが、彼も不安でいっぱいなのかも知れない。今までは学生の中でも一番上の年だったのが、今度は社会人一年生である。新鮮な気持ちを失わないようにしながら、しっかり将来への地固めをしなければならない。分かってあげなければいけないのだ。
だが、気にはしていても会わなくなると、自然と気持ちが離れて行くように思えてくる。思い出すのは、最後に見た彼の情けない表情だった。男の側からすれば、仕方がないことなので、落ち着けばまた以前のような仲になれると思っているのだろうが、思い出す顔が情けなさでは、どこまで彼に対して思いを持ち続けられるか、私には自信がなかった。そんな時に私に大人の男性を意識させる佐竹さんの存在は、次第に大きくなっていくものだった。
ただ、これも彼の存在があっての佐竹さんのイメージである、彼への反動のようなものが佐竹さんの存在を大きくしているとすれば、皮肉なものだった。おかげで、私は彼も失いたくないし、佐竹さんに対する想いも大切にしていきたい。佐竹さんには、「委ねたい」という気持ちがどんどん強くなっていくのだった。
佐竹さんと初めて店以外で会ったのは、ちょうど私の誕生日の日だった。その日、彼はちょうど仕事が忙しく、その代わりに友達がお祝いしてくれた。お祝いと言っても、私の誕生日に名を借りたただの飲み会だったが、三人ほどのこじんまりとしたものだった。どうしても就職浪人ということもあり、仕事をしている人たちに声を掛けるのは躊躇っていた、それでも誕生日を覚えていてくれたのか、声を掛けてくれたのが嬉しかった。
それでも親友というほど仲がいいわけではないので、少ない人数で二次会ということもなく、九時過ぎにはお開きになった。
私だけ帰り道が違うということで途中から一人になったが、何となく中途半端な気持ちで、一軒の喫茶店に入った。午後九時を過ぎているのにまだ営業をしているというのも珍しく、夜はお酒を出す店かも知れないと思ったのだ。
私もお酒を呑もうと思ったわけではない。コーヒーを飲みながら雑誌でも見れればいいと思って入ったのだ。扉を開けると店内は薄暗く、まるでお店にいるような錯覚に襲われたが、店内に流れているのは、クラシックの音色で、薄暗さは、音色に合わせているように思えるところが嬉しかった。
店内は静かなものだった、お客は少ないわけでもなく、それぞれの席でクラシックに親しんでいる人、本を読んでいる人、カップルで静かに話をしている人たち、決してまわりに迷惑を掛けることのない雰囲気は私に、
「この店に入ってよかった」
というホッとした気持ちを起させた。
前の年の誕生日は就職活動で忙しかったので、まともに誕生日を祝うということはなかったが、その前の年は、二人だけの誕生日だった。私にとっての初めての二人きりの誕生日、これほど嬉しいものはなかった。一緒に買いに行ったケーキやワイン、私の手料理に舌鼓を打ち、
「本当においしいよ」
と言ってくれたことが最大のプレゼントではなかったか。
すべてが手作りのバースディ、私にはお金で買えないものでも高価なものがあることを教えてくれた日でもあった。
「お金で買えない大切なものだってあるんだよ」
とテレビドラマなどでよく聞くが、私にはどうにも信じられない。頭では分かっているつもりだったが、本当にそんなものが存在するのか、疑問だったのだ。
初めて幸せを感じたかも知れない。家族から与えられなかった幸せだが、この幸せの先に待っているのは、私に幸せを与えてくれなかった家族というものである。家族という言葉を恨めしく思ったこともあった。特に自分がなるのは、一番嫌いな母親なのである。
――私は違うんだ――
作品名:短編集70(過去作品) 作家名:森本晃次