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電子音の魔力

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 それだけ自分に自信がないということの裏返しになるのだろうが、実際にまわりの視線を意識しているのも事実だった。
 だが、ずっと意識しているわけではない。むしろ意識するのは時々であって、意識している時以外は、まったく気にならない。人に言わせると、
「まわりの目を気にしないと」
 と言われることもあったが、まわりのどんな目を意識すればいいというのか、本人に気になるところがないのに、どう意識すればいいのか、瀬里奈には分かりかねることであった。
 ただでさえ、必要以上にまわりの目が気になる時があるのに、そんな時の精神的な摩耗は半端ではないと思っている。そんな感覚が訪れるのは定期的なことであって、自分の中で、
「病気なのではないだろうか?」
 と感じさせるものでもあった。
 もちろん、病気ではないと思っている。
 しかし、そう思っていることが、そもそも病気なのかも知れない。そう思うと頭の中がループしてしまいそうで、考えること自体、無駄なのではないかと思うのだが、考えないわけにはいかなかった。
 だから、まわりから、
「少しはまわりを気にしなさい」
 と言われても、これ以上どうすればいいのかと思うと、考えること自体をやめてしまいたいと思うことも多かった。
 人の気も知らずに、簡単に人をいさめるような言い方をする人の気が知れなかった。おせっかいにもほどがあり、
「人のことなんだから、放っておいてくれればいいのに」
 と、ありがた迷惑を通り越して、憎しみに変わりそうになるのを、堪えている自分も嫌だった。
 そんなおせっかいな人に限って、自分のことに干渉されるのを嫌う人が多い。彼らのおせっかいな進言を、まともに聞いている人は、
「自分がされて嫌なことだから、相手にもできない」
 とでも思うのか、進言した相手に自分の意見を具申することはできない。
「きっと、何倍にもなって返ってくることになるんだわ」
 と感じるからだ。
 ただでさえ相手の言葉に威圧を感じているのに、さらに何倍にもなって説教が返ってくることに、もはや耐えられるはずもない。
「触らぬ神に祟りなし」
 余計なことは言わない方が賢明なのだ。
 そんな人たちと友達になどなれるはずもない。そう思っていたが、彼らには絶えず、
「取り巻き」
 と言えるような連中を従えていた。
 彼らにとって助言してくれたその人は、神のような存在なのかも知れない。一人で思い悩んでいることを、一言の助言で、
「目からうろこが落ちた」
 と感じる人も多いだろう。
 瀬里奈のように、、人の助言を、
「大きなお世話」
 として考える人もいれば、
「溺れる者は藁をも掴む」
 ということわざもあるが、助言の内容がどんな内容であっても、助言してくれるという行為だけで、救われたと感じる人もいるに違いない。
 助言した人すべてが、その気持ちに付け込んでというわけではないのだろうが、取り巻きのようにまわりに従えているのを見るのは、あまり気持ちのいいものではない。
 ただ、そんな連中がいるのを見ていると、
「世の中人それぞれなんだわ」
 と、いまさらながらに考えさせられるというものだ。
 事実、取り巻きのように従っている連中を見ていると、別に嫌がっているわけでもなさそうだ。その人を本当に信じているのか、それとも助けてもらったことでのお礼のつもりなのか詳細までは分からないが、他人がそのことに対してとやかく言う問題ではないのは確かである。
 そう思うと、いよいよ余計な助言をしてくる人には腹が立ってくる。
「人のことなんだから、放っておいてよ」
 と言いたいが、なかなか口にすることができない。
 それは、まわりの取り巻きを見ていて、
――将来、私も一人ではどうすることもできない問題に直面し、目の前にいるこの人たちに助けを乞うことになるかも知れないわ――
 と思うと、むやみに冷たい態度を取ることを躊躇ってしまうのだった。
 人というのは、
「一寸先は闇」
 である。
 どうしても余計なことを考えてしまう自分がいる。余計なことを考えない方がいいのかも知れないが、考えないでいきなり問題に直面してしまい、後悔するのが怖いと思っているのだ。
 だが、余計なことを考えても、闇である先のことを、予見などできるはずもない。そう思うのに、どうしても余計なことを考えてしまうのは、いわゆるネガティブなのだからであろう。
 余計なことというのは、決まって悪いことばかりである。
 今考えなくてもいいことであったり、今下手に考えてしまうと、後ろ向きになってしまうことで、却ってロクなことがないように思えるにも関わらず、どうしても考えてしまう。やはり後悔したくないという思いが一番強いからなのだろうが、何を持って後悔というのか、瀬里奈にはピンとこなかった。
 おせっかいな人を見ていると、急に、
――これは私にも言えることなのかも知れない――
 と感じることもあった。
 誰かに助言したくてたまらなくなることもある。きっと、
――私なら、こうする――
 というのが、頭の中で映像として見えている時なのだろうが、そんな時の自分が、
「冴えている」
 と感じるわけではなかった。
 ただ、口にしなければ気が済まないだけだった。おせっかいな人も最初は同じ気持ちだったのかも知れない。そして思わず口にしてしまったことが、たまたま相手を助けることになったことで、
「自分には、人に助言できる力がある」
 と思い込ませることになったのだろう。
 だが、そんな結果になるというのは、いくかの偶然が重ならなければ成立しないことではないかと思っている。
 相手が助言を望んでいる人であること、そして相手の考えと自分の考えに共通点があるということ、相手の望んでいる回答が曖昧で、回答したことが、その曖昧な状況に嵌ってしまったということ。それらの偶然が重ならなければ、相手が自分を救ってくれたなどと思うことはないだろう。もちろん、これは瀬里奈の思い込みが強いことに違いないだろうが、人を自分の考えに引き込むことが難しいことは分かっている。
 確かに稀に、考え方が酷似している相手と話が合うこともあるだろうが、まったく同じ考えが存在するわけもなく、相手の違った考えが自分の考えを補ってくれると思っているのであればいいのだが、そのうちに自分の考えを否定するものであると考えると、その関係は一瞬にして瓦解するものではないかと瀬里奈は感じていた。
 要するに同じ考えだと思っている人との関係は、薄い膜のようなもので仕切られているだけで、紙一重のところで一触即発を孕んでいるのかも知れない。そこには表があり裏があり、紙一重であればあるほど、その表裏を感じることが多くなるのではないだろうか。
 瀬里奈は、自分の気の弱さにも表裏があるような気がする。
 もっとも、表裏というのは、突き詰めれば誰にでもあるもので、表に裏を出す出さないだけのことではないかと思えた。決して表情を変えないポーカーフェイスの人でも、必ず裏は潜んでいて。その裏は、えてして表と紙一重なのに違いない。
「長所と短所は紙一重」
 と言われるが、ここでの紙一重というのも、同じようなものではないかと、瀬里奈は考えていた。瀬里奈が感じた、
作品名:電子音の魔力 作家名:森本晃次