電子音の魔力
「芸術作品なのだから、違和感があったとしても、それは作家の先生の感性によるものなので、違和感は違和感とは呼ばない」
という発想もありだろう。
しかし、違和感を感じれば、そこには何か確かに違う感覚が潜んでいるのであって、それが和を持って結び付いてくると、
「読んで字のごとし」
のように感じるのは、瀬里奈だけであろうか。
元々違和感がある作品を、芸術家の先生は、よく別の角度から見ているのを見かけたことがあった。
――凡人ではない人って、あんな風にしないと、新しい発見ができないのかしら?
と皮肉を込めて感じたが、本当は、
――私たちにはない発想が羨ましい――
という嫉妬のようなものを感じていたのだ。
「そうだわ。違和感なんだわ」
ふと、瀬里奈は何かに閃いた。
違和感というのは、確かに
「違っているということを感じる時に、和、つまり繋がりを感じさせる何かがあるということなんだわ」
と感じた。
この思いは、夢にもデジャブにも言えることである。それぞれに共通点がありそうで、共通点を見つけることは難しいように思えた。それぞれに似た発想から生まれてきているように思えるが、それを共通点という認識から考えると、これほど難しいものはないように思えたからだ。
「違和感こそが共通点」
と言ってしまうと、語弊があるが、
「違和感が入り口を形成している」
と思えば、納得が行くような気がする。
デジャブにしても夢にしても、サッチャー効果にしても、確かに近い発想を感じるのだが、その入り口である、
「発想のきっかけ」
が、どうしても見つからなかった。
違和感という言葉もある意味抽象的で、曖昧なものだ。だからこそ、近いと思っているそれぞれを結び付けるには最適なのかも知れない。
宇宙空間を思い浮かべてみよう。空に見えている星は、それぞれ均等の距離に煌めいているかのように見えるが、実際にはそれぞれに気の遠くなるほどの距離があり、地球からの距離も隣に見えている星でも距離が違うのだ。
逆に言えば、光年という単位で考えれば、実際に見えている星の光は、数百年前に光ったものだったり、さらには数千年前に光ったものだったりする。
「もうあの星は存在していないのかも知れないわ」
と、ロマンチックに感じるが、どこか寂しさもあった。
そんな発想は、
「近くて遠い、違和感を形成するものではないか?」
と瀬里奈に感じさせた。
実際のサッチャー効果というのは、
「上下逆さまから見た顔が、実際の表情から判断した性格とは似ても似つかぬ表情になる」
ということを示唆したものだと言われている。
いわゆる錯視であり、錯覚がもたらした違和感だと言えるのではないだろうか。
サッチャー効果というのは、人の顔に対しての正立顔と、倒立顔とで、その特徴の変化の検出が困難なことを言う。
顔に関しては、人間はその各所の特徴や、配置について、特別な記憶が働いていることから、一度見た顔は忘れないという人が多いのもその特徴である。
だが、瀬里奈は
「自分が人の顔を覚えるのが苦手である」
ということを認識していて。
「どうして、そんなに人の顔って覚えられるの?」
と、人に質問したくなるくらいであった。
質問された方も、意識して人の顔を覚えられているわけではないので、その質問に対しての回答に苦慮してしまうだろう。
「どうしてあなたは覚えられないの?」
と逆に質問されても仕方のないことであろう。
そう思うと、瀬里奈がサッチャー効果を意識してしまうというのも、何か因縁めいたものがあり、ただの偶然とは思えない気がした。
元々人の顔が覚えられないのは、子供の頃家族で行った遊園地での出来事が由来していた。
あれは、まだ小学二年生くらいの頃だっただろうか。どうしてそうなったのか覚えてはいないが、瀬里奈は迷子になった。
「お父さん、お母さん」
と、声を出しながら探し回ったが、その声はまさに虫の鳴くような声であり、賑やかな遊園地では誰も瀬里奈のことを気にする人はいなかった。
本人は不安がっているはずなのに、その表情に不安げな雰囲気がまったく感じられなかったのも、そのせいではないだろうか。
不安に思えば思うほど、声が小さくなり、そのくせ、表情がまったくの無表情では、まわりも誰も瀬里奈を気にすることもない。
その感情を、
――私って、損な性格なんだわ――
と自覚していた。
だからと言って、その気持ちを表に出すようなことはしない。気持ちを表に出すことができる性格であれば、そもそも不安な時に無表情になったりしないだろう。
声だって、もっとハッキリと出すかも知れない。不安を感じ始めるとすべてにおいて、瀬里奈が発するオーラはマイナスにしか作用していないのだ。
遊園地で迷子になった時、たくさんの人が自分に背を向けて歩き去る姿を見ていると、そこに父親が足早に歩き去る後姿が見て取れた。
ただ、その横にいるのは母親ではなく、知らないおばさんであり、さらには瀬里奈と同い年くらいの男の子を連れていた。
おばさんやその子供は横顔を見せてくれたので、どんな顔なのか分かったが、父親に似たその男性は決してこちらを振り向こうとはしなかった。
しかし、瀬里奈はその男性が父親であると確信していた。最初に見た時に感じた父親だという感情を抑えることができなかったのだ。
こんな状態で声を掛けるなど、今までの、いや、それからの瀬里奈にもあり得ないことだったが、意を決したのか、瀬里奈は声を掛けた。
「お父さん」
声を掛けたというよりも、相手の返事を無視して抱きついたと言ってもいいだろう。
その男性は無言でこちらを振り向き、その顔を見た時、父親とはまったく似ても似つかぬその顔に、ビックリさせられた。
その男性はやはり無表情で、何も言わない。他の家族は、
「何よ、この子」
と言わんばかりに上から目線を浴びせている。
顔が真っ赤になり、どうしていいのか分からない瀬里奈はそのまま一気に走り去った。
「ごめんなさい」
と言わなければいけないのだろうが、それ以前であった。
走り去った瀬里奈は恥ずかしさからなのか、自分の中で整理できない思いが、目いっぱいの後悔をもたらした。その思いが瀬里奈が人の顔を覚えられない原因のすべてを作ったとは言わないが、大きな影響を与えたのは間違いのないことだろう。
瀬里奈が自分のことを、
「気が弱い」
と思い始めたのはその頃からだった。
だが、怖いもの見たさからなのか、ホラーやオカルト系の話には興味があった。
瀬里奈はまわりからも自分が怖がりだということを知られているという意識があるものだから、ホラーやオカルトに興味があるということを知られたくないという思いが強かった。
人に知られると、間違いなく冷やかされるかバカにされるかのどちらかである。そんな状態に自分の身を置くことに果たして耐えられるかどうか、瀬里奈には分からなかった。
分からなかったということは、自分の中で、
「耐えられない」
と感じているということを意味していると思った。
「疑わしくは罰せず」
という言葉があるが、瀬里奈はそうではなかった。