電子音の魔力
瞬きをした瞬間に、それまで感じていた汗を感じなくなってしまうような気がしたからだ。
この時の瞬きは、瀬里奈に幻を見せるだけの十分な時間がありそうな気がした。それは夢を見ているのと同じ感覚だと感じたのは、自分が男性に羽交い絞めにされて、後ろから愛撫されている感覚を思い出したからだ。
――あれは夢だったんだわ――
いつのことだったのか、最近だったような気がするが、この思いは明らかにデジャブである。
デジャブとは、既視感とも呼ばれ、
「いつどこでだったか分からないが、確かに記憶の中に存在しているもの」
という意味で使われる。
「人間の感覚から神経を通ってきた信号が、脳内で認識し記憶される段階で、脳内で認識される作業以前に、別ルートを通り記憶として直接脳内に記憶として蓄えられ、脳が認識する段階で、すでに記憶として存在するという事実を再認識することにより起こる現象ではないか」
という説もあるという。
さらに注目すべきは、いつどこでなどという具体的なことは覚えておらず、漠然と意識だけが記憶として残っていることから、その部分だけ、強烈な印象として記憶に残るべく意識が作用したのではないかと、瀬里奈は考えていた。
もちろん、何の知識もなく、そんな発想が生まれるわけではなく、図書館でデジャブに関しての本を読んだことから感じたことであった。
瀬里奈は、この頃から自分の性格に異常性を感じるようになり、その原因を探求しようと思うようになっていた。その手始めが図書館で心理学の本を読むことであり、さらにエロやグロと言った、他の人が毛嫌いするものを自らで探求しようと思うようになっていたのだ。
デジャブの話に戻るが、瀬里奈はデジャブと似たような発想として考えられる、夢や記憶喪失と言った現象や病気とは、一線を画したものだと思うようになっていた。
実際にデジャブというものがどこまで研究が進んでいて、夢や記憶喪失との関係が本当に一線を画すものなのかどうか、本を読んでいるだけでは分かりにくいところがあった。
何しろ専門用語で書かれているところが多く、中学生や高校生の頭で理解できるものではない。それでも何とか読んでみようと思う努力は少しずつ実を結んでいるような気がしてきたのか、夢に関しては、少し自分なりに理解してきたような気がした。
夢に関しての著書も多く、ただ厄介なのは、数が多いということに比例して、発想もそれだけ広がっている。うまく頭の中で整理できなければ、理解を深めることは難しいだろう。
デジャブというものが、今実際に研究されて発砲されたものが、学説として確立されているものなのかどうか、瀬里奈には分からなかった。本を読んで、
「なるほど」
と思えることもたくさんあったが、瀬里奈の中で独自に考えているものもあるので、それはそれでありだと思っていた。
デジャブというものは、初めて見たという認識の中で、
「以前にも見たことがあったような気がする」
という意識が働いたものだった。
説のほとんどとして、
「以前に見た」
ということに対して、かなりの信憑性を感じているということを前提に、デジャブという現象を考えている。
つまりは、実際に見たことがあったのかどうかということよりも、記憶が第一だという発想である。
瀬里奈もその発想には賛成なのだが、実際に見たことがあったのかどうか、考えてみようと思っていた。
「錯誤ということは考えられないかしら?」
つまり、記憶の中の印象に残っている映像や画像と、今まさに見ている状況とが記憶の中で錯綜しているという考えである。
「別ルートを通る記憶」
という発想と似てはいるが、瀬里奈の考えは、あくまでも見たということを前提に考えている。
ただ、その見た内容が、深く印象に残っていることではあるが、思い出すまでのことはないもの。つまり、
「思い出したくない記憶」
というものではないかという発想である。
これは、
「夢の記憶」
というものとは正反対の発想である。
瀬里奈は、
「自分が見た夢を覚えていることはまれで、覚えている夢というのは、決まって怖い夢だった」
と思っている。
本当であれば、思い出したくもない内容を忘れてしまわずに覚えているというのは、逆の発想で、
「忘れてしまいたくない」
と思っているからであろう。
それは、自分の中で正夢や、予知夢を思っているからなのかも知れない。怖い夢ほど、正夢や予知夢ではないかと思うのは、ある意味ネガティブな性格によるものなのだろうから、信憑性には欠けると思っていいかも知れない。それよりも怖い夢を忘れないという意識が、その後に起こるであろう、降りかかってくる災難に対応できるようにするための大切な記憶として意識しているからだ。
だから、怖い夢というのは、
「覚えているというよりも、忘れられないという感覚ではないだろうか」
と思っている。
では、デジャブに関してはどうだろう?
デジャブは、忘れてしまっていることを思い出させてくれるトリガーのようなものだと考えると、忘れてしまっていたと思っていたことも、本当は忘れてしまったわけではなく、記憶の奥に封印され、何かのキーワードで開く、
「開かずの間」
のようなものではないだろうか。
今のところ、怖い夢にしても、デジャブにしても、思い出したことで、自分が災難から逃れられたり、助けられたということはない。あくまでも本人の意識していないところで見えない形で達成されていることなのだろうか? もしそうだとすれば、怖い夢を忘れないことや、デジャブによって思い出すことは、ただ、本人に不思議な現象を植え付けるだけで終わってしまうものになってしまっている。
瀬里奈は図書館で、エロいものやグロテスクなものを探そうという意識は持っていたが、デジャブや夢の発想を頭に抱くようになってから、心理学についても、思い描くようになっていた。
最近興味を持ったのは、
「サッチャー効果」
という発想だった。
そういう効果があるのは、ウスウス気付いていたような気がしていたが、それが学問として形成されているということは知らなかった。
――名前までついているんだ――
と考えたが、どうしてこのサッチャー効果に興味を持ったのか、思い返していた。
元々、そういう現象は無意識の中の意識として残っていたような気がする。街を歩いていると、サッチャー効果を感じさせるものがたまに目に飛び込んでくる。
もちろん、サッチャー効果などという言葉も知らず、心理学的に研究されていることだなどと思いもしていなかったので、漠然と見ていただけだった。
サッチャー効果というのは、絵画や何かのデザインなどで、正面から見た印象と、逆さから見た印象でまったく違って見えるということである。
普通の絵画やデザインは、正面から見た印象だけがすべてであり、逆さから見るなどということは普通は誰もしないだろう。
しかし、逆さから見てまったく違った印象のものに写るということは、正面から見た印象もどこか違和感があるのではないかと思う。