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電子音の魔力

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 しかし逆の発想として天国と地獄という発想自体、あまりにも奇抜であり、そのために他の意見が入り込む余地がないと言われれば、それを当然のこととして受け入れる人もほとんどに違いない。
 それほど天国と地獄という呪縛は強いものに違いない。
 この発想がいつから存在し、定着していったのか、瀬里奈に分かるはずはないが、少なくとも宗教的な布教を考えると、それを信じることで救われると思った人が多いのも事実であろう。
 地獄にしても、
「戒め」
 という意味では宗教的には重要な解釈の一つだったに違いない。
 宗教というものが、人間の生活に対してどれほどの精神的な介入になったのか、それぞれの時代で違っていたとしても、そこには大きな慣習が存在し、現在に至っているのではないだろうか。
 瀬里奈は、死後の世界、つまりは天国と地獄という発想は、夢の中でしか考えることができない。そう思うと、
「夢というのは、死後の世界への入り口なのかも知れない」
 という発想も生まれてきた。
 そういえば子供の頃に感じた発想として、
「もし眠ってしまって、このまま目が覚めなかったらどうなるんだろう?」
 と考えたことがあった。
 そのせいで、あれだけ一定の時間になれば眠くなって、いつも寝る時間が一致していた子供の頃だったはずなのに、急に眠れなくなった時期があった。
 いつも同じ時間に眠くなるのは、子供心にも瀬里奈は、
「当たり前のこと」
 として認識していた。
 親としても、
「あの子は、ちゃんと決まった時間に寝てくれるから助かるわ」
 と言っていたのを、母親の言葉として覚えていることから、本当に子供っぽいと思っていたようだった。
 だが、眠ってしまって起きてこれないことを考えるなんて、最初は自分だけだと認識していた瀬里奈だったが、次第に他の人も同じ経験が一度くらいはあるのではないかと思うようになった。
 どうして眠ってしまうとそのまま起きれなくなるという発想になったのかということを考えていると、
「死後の世界を夢で見てしまうからだ」
 と思ったからだ。
 ということは、その時はまだ夢で死後の世界を見たことがなかったということである。もし見ていたのであれば、起きてくることができたのだから、
「もし眠ってしまって、このまま目が覚めなかったらどうなるんだろう?」
 などという発想は成り立たなくなってしまう。
 だから天国と地獄という世界の発想を抱いたのは、逆の発想から、
「夢を見たからじゃなかったんだ」
 と、最近になって瀬里奈はそのことに気が付いた。
 ただ、それも、元々の発想として、
「天国と地獄の世界という発想は、夢で見た」
 という前提があって、それを否定する形で生まれた発想だった。
 それを思うと、最終的に結論付けた発想であっても、元々は正反対の発想から進展したものも、少なくはないような気がする。
 瀬里奈は、
「ある時、急に死にたくなる衝動に駆られる」
 と思うようになった時期があった。
 今のように、一定の時間になると死にたくなるような発想ではなく、どちらかというと、不定期に感じるものだった。
 だが、一定の時間に感じる時というのは、頻繁に感じていることなので、怖いという発想に慣れてきているというか、感覚がマヒしてきているのか、それほどの恐怖もない。慣例的になっているので、
「ああ、また今日も感じてしまった」
 という気持ち悪さの方が強く、感じたことに疑問を呈することはなくなっていた。
 しかし、最初に感じていた頃の不定期な感覚は、
「どうしてこんなことを感じたんだろう?」
 恐怖もさることながら、それ以上に感じてしまったことが自分のどんな心境から来ていることなのか、そのことに対しての疑問が大きかった。
 その思いが強いせいか、疑問と恐怖が一緒になり、しかも頻繁ではないことから、そのすべてが恐怖心として植え付けられていた。
「こんな思い、二度としたくない」
 と感じてしまったことを後悔するのだが、感じたことが無意識だったことで、自分を責めることもできず、やるせない気持ちになってしまっていた。
 この頃には、ひょっとすると、どうして死にたくなったのかという意識もあったのかも知れない。恐怖心を抱かなくなった今となっては、その頃の心境を思い図ることは難しくなったが、瀬里奈には、
「その頃なら分かっていたのかも知れない」
 と感じるものがあったのだ。
「怖い夢を見るのは、普段から何かに対して不安を抱いているからなんじゃない?」
 と言われたことがあったが。その話があまりにも当然のことを言っているようで、心の中で、
――そんなことは、最初から分かっているわよ――
 と無意識に言っていた。
 瀬里奈は、
「不安を抱いていることと、ただ心細いと感じていること」
 という二つが同じことだとは思っていない。
「心細いから、不安を抱くのか、不安を抱くから心細いと感じるのか、どちらでもないような気がする」
 と思っていた。
 不安を抱くというのは、何か具体的な理由が分かっている時であって。心細く感じるのは、具体的な理由がハッキリとしないけど、心が平穏ではない状態の時をいうのではないかと思っていた。
 郁美と不安と心細さについて話をしたのは何となく覚えていたが、その結論が出たのかどうか覚えていない。瀬里奈は郁美との話の中で、話題に出たことが必ずしも最終的な結論が出たということが比較的少なかったような気がする。それは本当に結論が出なかったのか、それとも結論は出たが、その結論を忘れてしまったのかが分からない。もし忘れてしまったのであれば、それは瀬里奈が結論として認められないと思ったことであろうが、果たしてそんな思いが郁美との間にあったのかどうか、瀬里奈は分からなかった。
 エロとグロの世界、天国と地獄などの正対する二つの世界観を思い描いていると、以前考えたことのある「サッチャー効果」を思い出した。人の顔などを正面から見るのと、逆さにして見るのとではまったく違った光景が拝めるという現象であるが、いわゆる錯視であり、錯覚である。
 この場合のエログロ、天国と地獄という、正反対の発想も同じものを逆さにして見た時と同じ発想ではないかと考えれば、サッチャー効果であり、それは錯覚だと思えることになる。
「では、どちらが錯覚なのか?」
 と考えると、天国と地獄の場合は地獄を錯覚だと思いたいと感じるだろうから、エロとグロで考えれば、グロを錯覚だと思いたいに違いない。
 では。エロというのは錯覚ではない正当なものとして理解してもいいのだろうか?
 普通エロスというと、
「秘められたるものであり、あまり表に出すものではない」
 という意識が定着しているように思うがどうであろう?
 そんな意識を持っていると、自分の両親が自分に感じていたことも、このエロと同じ発想なのではないかと思えてきた。
 一見、子供のことを考えてくれていると思っている両親だったが、時々そう思うことに違和感を感じることがあった。その理由はハッキリとしないのだが、何か奥歯にものの挟まったような言い方や、思わず歯ぎしりをしたくなってくるような感情を持ったが、それがどこから来るものなのか分からずにいた。
作品名:電子音の魔力 作家名:森本晃次