電子音の魔力
「死にたい」
と目が覚めた時に感じる理由になったのではないかと思うのだった。
死にたいと思った時に感じたのは、
「夢の中で、死後の世界を垣間見たからでは?」
と感じたが、忘れてしまっている夢なのに、死後の世界を見たとどうして言えるのか不思議だった。
目を瞑るとその光景が目の前に現れた。だが、その光景が本当に死後の世界のものだという意識とは程遠い気がした。確かに気持ちの悪い世界ではあるが、自分が考えられる範囲での天国とも地獄ともかけ離れた光景にしか見えなかったのだ。
言葉で表現するには難しいかも知れない。目を瞑ってじっとしていても、目の前の光景が変わるわけでもなかった。それは現実世界でも同じことなので、別におかしいとは思うはずもないのだが、目を瞑って見える世界が、まったく微動だにしないことを、瀬里奈は不思議に感じていた。
まったく動かない世界をじっと見ている感覚は、まるで目の前にある鏡に自分を投影させて、その姿を見ているような感じだ。鏡の中というのは、現実世界とは温度差があり、じっと見ていると、次第にその変化に気付くようになってくる。
変化というのは、動きがあったり、今まであった場所から移動していたりという感じではなく、
「色が失せていくような気がする」
ということであった。
目の前の鏡に写った光景は、次第にモノクロに変わっていく。それは目が慣れてきたからだということで自分を納得させるのは簡単だが、それだけではないような気がしてくるのだった。
「色が失せてくると、見えているものが見えなくなるような気がする」
と郁美は以前言っていたが、その時は何のことを言っているのか分からなかった。
しかし、実際に夢の中とはいえ感じてみると、本当に見えていたものが見えなくなりそうな気がしてくる。
だが、実際には見えなくなるわけではなく、見えなくなったものは何一つとしてないように思えた。想像よりも確証を感じていたが、その理由は、
「動きがないこと」
ではないかと思えたのだ。
動きがないことで、まわりは固まってしまったかのように思える。瞬きをなるべくしないようにしていると、動きのないものは目が慣れてきているせいなのか、次第に暗くなっていくのを感じる。
目の前に写っているものも、次第に小さく感じられるようになり、全体的に狭くなったように思えた。
しかし、実際には視界の幅が変わったわけでも、遠近感が狂ってきたわけでもなく、最初とまったく何ら変わっていない光景を見ているだけだった。
――こういうのを錯覚というのかしら?
と感じたが、錯覚を錯覚と感じない自分もいて、マヒしてしまった自分に見つめられている気がしてくるのだった。
目の前にある死後の世界と思しき光景は、いわゆる、
「グロテスクな世界」
であった。
何を持ってグロテスクというのかは分からないが、前に感じた、
「エロティシズムとは紙一重」
という意識を思い出していた。
「エロの中にグロを感じることはできるが。グロの中にエロを感じることはできない」
と、かつて瀬里奈は感じていたが、今回見たと思っている死後の世界に対して感じたことは、
「エロであってもグロであっても、その中に別々にエロもグロも感じることができる」
というものであった。
要するに何でもできるというもので、エロの中に別のエロも含まれていたり、グロの中に他のグロも感じられたり、感受性が汎用的になったと言えるのではないだろうか。
瀬里奈は、死後の世界という意味での、天国と地獄という世界をイメージしたが、絵画で見たようなイメージとは少し違っていた。
天国、いわゆる極楽というのは、蓮の花が咲いている横で、お釈迦様が佇んでいるという雰囲気。地獄というのは、鬼がいて、その近くには血の池や針の山という拷問のための設備が用意されているイメージであったが、瀬里奈の中ではもっと単純で、極楽というところは、エロの境地に近いもの、いわゆる女性がたくさんいて、真ん中に男性がいるというハーレム状態をイメージしていた。地獄にしても、鬼がいるわけではなく、ただ気持ち悪いものが蠢いているだけの世界であり、そのイメージはその人が嫌だと思うものであって、人それぞれと言えるものではないだろうか。
夢の中に出てくる世界に、
「煩悩は出てこない」
と感じていた瀬里奈だったが、こうやって想像してみると、
「まるで、エロとグロの集約した世界を見ているようだ」
と感じた。
夢の世界なのだから、別にその人が感じているはずの潜在意識が見せているものなので、エロであってもグロであっても別に問題はないだろう。しかし、少なくとも現実世界以外のものに、現実世界では実現できないものを期待している気持ちがあるのも事実ではないだろうか。
ただ、そんな世界を想像するだけの材料は今までに豊富にあった。
「いいことをすれば天国に行けて、楽しい生活を送ることができる。悪いことをすれば地獄に落ちて、苦しみが待っている」
と当たり前のように子供の頃から思っていた。
それはきっと親から言われたことを信じているからなのか、それとも学校の先生に言われたことなのか、それとも他の誰か?
いろいろと考えていたが、相手が誰であったりせよ、少なくともそれを信じさせるだけの自分にとって、
「一番信じたい人」
が存在したことに間違いはない。
それが誰であったのかいまさら想像しようとしても難しいことであってが、確かにそんな人物は存在した。それを思うと、
「自分が誰かの影響を受けずに生きてこなかったということはないのだ」
ということを、いまさらながらに感じさせられた。
もちろん、そんなことは分かっていたつもりである、分かっていて、
「人と同じでは嫌だ」
という性格になっていた。
それは、前提として、
「自分に影響を与えた人が確かにいた」
という思いを抱いていたからではないかと言える。
瀬里奈は、それが親であったり、先生であったりしてほしくないという思いから、人と同じでは嫌だと思っているのかも知れない。
親や先生を虫唾が走るほど嫌いだというわけではないが、今後の人生で自分に影響を与えないでほしいという思いが強いのを分かっていた。それはまだ自分が大人になり切れていないからであって、大人になり切ってしまうと、この思いが変わってしまうかも知れないとも感じた。
だが、そんな思いになるくらいなら、
「大人になんかなりたくない」
という思いもある。
今の世の中、引きこもりであったり、人と関わろうとしない青年が多いが、その中のどれくらいの割合になるかは分からないが。同じ思いを抱いている人も少なくはないことだろう。
エロとグロの世界をイメージした瀬里奈は、それを夢の世界で見たものだと認識していた。
天国と地獄というまったく正反対の世界が存在し、死んだ人間はそのどちらかに行くということを信じている人は、ほとんどの人間に違いない。もし、他に意見があるのであれば、それはそれで問題で、もっと知れ渡っていてもいいはずだ。誰かが故意にその意見を抹殺でもしないかぎり、一つの意見として認められてもいいはずだからだ。