電子音の魔力
自分がどう感じていたかということしかないのだろうが、多かったのか少なかったのか、瀬里奈の中ではどちらともいえなかった。
電子音を感じるようになってから、急に心細さが襲ってくるのを感じていたのは、
「電子音を意識することで、見たいと思っている夢の続きを見れるのではないか?」
と考え始めた頃だったのかどうかハッキリとはしない。
しかし、電子音を聞いて目が覚めると、本当であれば忘れてしまいたくないと思っている夢を忘れていることにホッとさせられる。それが続きを見たいと思っている夢ではないと分かっていたからなのだろうが、ホッとするのは完全に目が覚めてしまうまでの間だけで、完全に目が覚めてしまうと、今度は夢の世界から抜け出せたことに対して不安に感じるようになっていた。
感じた不安は心細さに変わっていき、その心細さがもたらせた不安な要素は、忘れてしまっていた。
何かを不安に感じるというのは、少なくともその不安にさせた何かを自分で分かっているということである。
「理由は分からないけど、不安なのよ」
と言っている人がいるが、瀬里奈の中では、
――それは不安なんじゃなくって、ただ心細いというだけなのでは?
と感じていたが、それを相手に指摘することはなかった。
ただ、一度だけ郁美にその話をしたことがあったが、
「そうかしら? 私は不安というのと、心細いというのは同意語のように感じているんだけど」
と言われた。
郁美ならもう少し違った考えがあるかと思ったが残念だった。だが、本当は郁美もこの違いを意識しているようで、アッサリと瀬里奈の話を退けたのは、郁美の中に、
「誰かが自分と同じ考えを持っていることがあるとして、そのことを先に相手が意識していたということを相手に言われると、自分は何も言えなくなってしまう」
という思いがあったからだ。
それは怖いという意識であったり、自分の中にあるプライドのようなものとは違っていた。理由はハッキリとしないのだが、考えなくてもいい余計なことを考えてしまって、それが不安として残ってしまうことを恐れていたのだ。
瀬里奈は郁美の気持ちをよく分かっているつもりだった。彼女の発想は自分とも似ているので、何を考えているか感じようとした時、他の人であれば、紙一重であったり、背中合わせであったりする考えに迷っていたり、考えていたりするものだと思うのだろうが、郁美に対しては、
「決して、考えていることが複数あったとしても、それぞれが背中合わせだったり紙一重だったりすることはない。私が彼女の気持ちになって考えれば分かることだわ」
と感じるようになっていた。
瀬里奈にとって郁美という親友の存在は、
「他の人と同じでは嫌だ」
と考えている瀬里奈の、
「他の人では決してない」
ということであった。
「自分に置き換えて考えることのできる人」
それが郁美であった。
しかし、だからと言って、郁美は瀬里奈では決してないのだ。同じような考えであっても、その距離は他の人の同じような考えとは違ってかけ離れているものではないかと思っている。それは、
「距離ではなく、次元の違い」
という感覚であり、郁美に対してはまるで、
「異次元にいるもう一人の自分」
ともいえる感覚であった。
ただ、自分であってはならない相手でもあり、それを感じてもいい相手が郁美だけだということでもあった。汎用性があるようで、実は一番制約されている相手というのが、郁美なのではないかと瀬里奈は思っている。
「電子音が響いていると、それがどこから響いているのか分からない」
という発想は、一体いつからのことであろうか?
以前はいつ頃のことだったのか分かっていたような気がする。それが分からなくなってきたのは、夢と電子音が関係しているということを感じるようになってからだったような気がする。
「では、夢と電子音が関係していることに気付いたのは、いつのことだったのだろう?」
この思いは今から遡って考えるのは難しいことであった。
夢というのは、時系列とはまったく関係のないところで存在している。見ている夢を後から思い出して、
「あれだけ長かったかのように思えるのに、意識がハッキリしてくると、まるで一瞬だったような気がする」
と感じることがある。
だからこそ、
「夢というのは、目が覚める数秒で一瞬にして見るものだ」
という話を聞いた時、
「そんなバカな」
と口では言っても、心の中では何か悶々としたものが渦巻いていたような気がするのだった。
夢が時系列とは別のものだと考えると、夢を見ている時間そのものが怪しいものになってしまう。本当に眠っている時に見ているのかすら疑わしい。
眠っている時と起きている時で、意識がまったく違っていることが、
「夢の内容を覚えられない最大の理由だ」
と思っていたが、そうではないのかも知れない。
「夢というのが、時系列とはまったく関係のないところで存在している」
という概念を考えると、現実世界ではとても認めることのできないもののように感じられる。
夢を覚えられない理由は、やはり自分の中にあるのだ。
認めることができないので、納得することもできない。だが、実際に見ている夢は時系列に沿ってのものだとしか思えない。
ということは、時系列で見ることができた夢だけ、覚えていることができるものではないだろうか。時系列で見ることができる夢に、どんな法則があるのかは分からないが、夢を覚えている覚えていないの境目は、決して自分にとってどのように感じた夢なのかどうかという発想ではないということである。
だが、この発想が本当に正しいものなのかどうか分かるはずがない。検証しようもなければ、証明する手段もないのだ。あくまでも瀬里奈の発想であり、時系列で見たわけではない夢をいかに時系列で見たかのように組み立てることができるかということが、どれだけの夢を覚えていられるかのバロメーターと言えないだろうか。
夢という世界ほど漠然としたものはない。それだけに発想もいくらでもできるが、その発想を許すか許さないかは、本人の気持ち一つである。
夢と現実の世界、それは時系列の存在にも関わってくるものだと考えれば、次元の違いや結界の存在も、認めざるおえない何かを感じさせるものである。
瀬里奈が死にたいと感じたのは、夢から覚めたある日のことだった。それまでにも死にたいと思ったことは何度かあったが、目が覚めると同時に死にたいと思うことなどなかったはずだった。
普段から目を開けてから完全に目が覚めるまでには、かなりの時間が掛かっていたのだが、その頃は意外と完全に目が覚めるまでの間隔が短かった。
完全に目が覚めたという定義は、意識が朦朧とした状況ではダメなのだと思っていたが、実際にはそうでもなかった。本当に目が覚めたと思うのは、
「夢を見たはずだと思っていて、その夢を思い出そうとするのだが、思い出せないということが自分の中で確定した時だわ」
と感じる時ではないかと瀬里奈は思った。