電子音の魔力
という意識に繋がっていったのだろう。
矛盾というのは。子供の頃から絶えず考えていた。何が何に矛盾しているのかというのはその時々で違っていたし、矛盾を感じたその時には、どうして矛盾を感じたのかという思いが、すでに過去になってしまい、意識から忘れてしまっているような気がするのだった。
瀬里奈がヲタクを自分の中に意識するようになったのは、
「自分の中の考え方の矛盾」
という発想から繋がっているように思った。
――ヲタクって、矛盾を感じないのかしら?
と思ったが、自分がヲタクを意識するようになると、今度は、
――矛盾を考えていたら、ヲタクなんてやってられないんじゃないかしら?
と思うようになっていた。
ヲタクというと、これはあくまでも瀬里奈の偏見になるのだが、エロとグロではないかと思っている。もちろん、エロでもグロでもないヲタクはあるのかも知れないが、瀬里奈の中では、
「ヲタクは、エロかグロのどちらかに含まれる」
と思っていた。
エロというのは、エッチ系の話になる。瀬里奈としてはグロよりもエロの方が避けたいものだと思っている。それは自分が女の子だからという意識が強いからで、自分が男性だったら、エロよりもグロの方を避けたいと思うだろうと感じていた。
だが、いろいろと考えてみると、エロもグロも、どこが違うのかと言いたいほど、突き詰めれば共通点が多いような気がしてきた。
エロもグロも、どちらも他言してはいけないこととして言われていることである。ただエロの場合は表立って口にしてはいけないと言われていることであり、グロの方が、表立って言うことができないものだと感じている。
どちらもタブーとされていることではあるが、エロは人間の尊厳の問題だと思えていた。その理由として、
「男女の間には、決して触れてはいけないタブーが存在している」
という考え方だ。
それは、聖書の時代から、アダムとイブがこの世に存在した時、裸を恥ずかしいと思うようになった気持ちからではないだろうか。
旧約聖書の中に描かれている、
「禁断の果実」
を口にしたことから、恥じらいが始まったとされる。
禁断の果実とは、
「善悪の知識の木の果実」
と言われている。
一般的にはリンゴの果実だと言われているが、宗教の違いや地域の違いによっては、ブドウであったり、トマトやザクロなどと言われているところもある。
善悪の知識を知ることで、
「裸を恥ずかしい」
と感じるようになった。
そして、恥ずかしさから身を隠すため、イチジクの葉を身にまとったとされている。
つまりは、
「裸=恥ずかしい=悪いこと」
という発想に至ることから、いわゆるタブーとされることになったのだ。
いわゆる、
「禁断の果実」
というのは、
「それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることが禁じられているということを知ったことにより、却ってその魅力に凌駕され、欲望の対象になってしまう」
ということを示している。
つまりは、手に入れることのできないものへの欲求を知ることで、タブーとされることを欲している自分に快感を示しているということになるのだろう。
時間を要したり、努力することによって手に入れられることであれば、そこにこれほどの興奮を感じることはない。まずは、
「それを欲している」
という気持ちが最初に来なければ、エロというのは、成立しないものである。
しかも、そこに禁断の果実という意識があることから、恥じらいを自分が欲しているものと混同する。
エロティシズムとは、そんな感情が性的な興奮であったり、欲求を自分の中に見たそうとするものである。色気であったり、肉感的なものへの興奮や、想像を掻き立てるような小説であったり戯曲などは、その最たる例だと言えるのではないだろうか。
ただ、この感情は、
「人間であれば、誰でも持っているもの」
と言えるのではないだろうか。
人間というのは、いや、人間に限らず生物は、そのすべてが男と女に別れている。男が女を欲し、女が男を欲するのは当たり前であり、それを人間や動物は、
「本能」
という言葉で呼ぶのだ。
性的興奮というと、どうしても毛嫌いされたり、顔をしかめられたりすることが多く、自分の中にエロティシズムを抱えていると思っている人は、そこで自分を閉ざしてしまうことだろう。
瀬里奈は時々自分の中にエロティシズムを感じていた。それは小学生の頃からだったのだが、それよりも、エロさを隠し持っている人を見つけることに長けていると思うようになった。
だからなのかも知れない、
――エロティシズムを隠そうとしている人を感じることができるんだ――
と思うようになった。
エロティシズムを持っている人は隠そうとしているという意識を持っていない。最初からないと思っているので、気配を感じた瞬間に、無意識に隠そうとするのだろう。
瀬里奈は、その瞬間を敏感に感じ取ることができるようだ。それを特技と思うべきなのか迷うところであるが、少なくとも長所だとは思っていない。
「無用の長物」
とは、このことかも知れないと感じていた。
瀬里奈はエロティシズムを否定する気はない。どちらかというと、エロティシズムを毛嫌いしている人に疑問を感じるほどだった。
自分がエロティシズムの仲間だとは思いたくはないが、エロティシズムに走る人の気持ちは分かるような気がする。
ただ同じエロティシズムでもどうしても理解できない感情があった。それはSMの世界である。緊迫やろうそくなどでどうして興奮するのか、瀬里奈には分からなかった。
瀬里奈にエロティシズムの知識を与えたのは、中学時代の同級生だった。その人は男子生徒で、彼とすれば真面目な瀬里奈にエロティシズムな話をして、彼女が恥ずかしがっている姿を見るのが好きだったようだ。彼は隣の席だったので、授業中に耳打ちすることで瀬里奈の恥じらいをさらに掻き立てることに成功した。その先生の授業は、ただでさえやかましく、ほぼ誰も授業を聞いている人はいない状態だった。
まさしく無法地帯。そんな状態で瀬里奈はその男子生徒に耳打ちされる状況は、耳打ちする方も、される方も興奮は最高潮になるのではないだろうか。
この行為自体が、どこかSMチックなところがあり、聞きたくないという思いが前面に出ているくせに、耳を真っ赤にしている自分が、金縛りに逢ったかのような状態になっていることに興奮を覚えていた。その興奮は、
「いきそうでいけない」
いわゆる寸止めの興奮を味わわせてくれた。
ここでの金縛りは縄で縛られる緊迫とどこが違うのか、瀬里奈は緊迫の興奮が分からないでいた。
ただ金縛りというのは、自分が予期していない状態でいきなり襲ってくるもので、緊迫は最初から予感のあるものであった。だが、金縛りも何度か襲ってくるようになると、少し認識に違いがあるのを自覚するようになった。
金縛りというのは、襲ってくる一瞬前に、予感めいたものがあった。
「ヤバいかも知れない」
と感じる。