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電子音の魔力

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 瀬里奈は最初に絵を漠然と全体を見ていたのだが、絵を絵画として意識するようになると、全体を見るというよりも、部分部分を意識して見るようになった。その影響からか、最初に感じたのは、
「遠近感」
 だった。
 遠近感は、立体感に繋がるものである。元々立体である三次元を平面の二次元の中に収めようとするのである。
「次元をまたぐ」
 という意味でも、絵画という言葉で納得させようとすると、どうしても、親近感を抱かせようと考える。
 その思いが改まって考えさせ、かしこまった態度が緊張を誘うからなのかも知れない。
 しかも、
「二次元から三次元」
 というような、広がる感覚ではなく、狭める感覚になることは、瀬里奈の中での感覚を逆行させているようで、余計な緊張を抱かせるのだった。
 遠近感は静的な状態から動的な状態を描き出す。それが
「三次元を二次元で表現する」
 というイメージと矛盾しているように思えたのだ。
 遠近感の次に感じたのは、
「バランス感覚」
 だった。
 これを最初に感じたのは風景画からであった。風景画で海と空、そして水平線との境目を考えていると、自分の中で最近特に感じていることとの感覚に酷似してくるのが分かってきた。
 例えば一つが、海と空という相対称の感覚であった。相対称は鏡の世界とも結びつき、
「矛盾する無限ループ」
 に繋がるものであった。
 さらにバランス感覚は、以前に感じた「サッチャー効果」を想像させた。
 上下でまったく違った表情に見えるというサッチャー効果は、いかにも芸術作品に結び付くものがある。また、鏡の世界で感じた、
「永遠のテーマ」
 として考えている、
「鏡というのは、左右対称に写し出すものであるが、上下が反転することはない」
 という思いがあった。
 どうして左右が対称に見えるのに、どうして上下が反転しないのか、納得のいく説明をできる人はいない。
 人それぞれに言い分はあるようだが、どれも決め手というわけではない。逆に言えば、「そのどれもが、もう少しでも一歩先に進むことができれば、納得できる理由になりそうだ」
 と言えるのではないだろうか。
 そういう意味では、それぞれの考えには力があり、人それぞれの感覚として、そのすべてが間違いではないと言えるのではないだろうか。だから、その答えを無理に求めることもなく、曖昧なままの方が、それはそれで納得のいくということもあるのではないかという汎用的な考え方ができるのであろう。
「遠近感」と「バランス感覚」というのは、まったく違ったものではなく、それぞれに共通している部分は結構あるように思えていた。それこそ、
「継続する納得」
 に通じるものがあるような気がしていた。
「絵画についてここまで考えることができるのに、実際に描くことができないなんて」
 というもどかしい思いが、瀬里奈の中にあった。
 しかし、逆に言えば、
「ここまで分かっているからこそ、描くことができない。いわゆる自覚の問題ということになれば、描くことができない理由を納得することはできる」
 とも言えるのではないだろうか。
 これも一種の矛盾なのだが、納得のいく矛盾であり、もどかしさは残るが、尾を引くものではないと言えるだろう。
 瀬里奈はそんなことを考えながら、次第に自分の発想が横道に逸れてくるのを感じていた。

                電子音による暗示

 瀬里奈は中学を卒業する頃から、音に関して敏感になってきた。まわりの音が気になるようになったというべきか、それがどうしてなのかよく分からなかった。理由が分かったのは高校生になってからであって、それまで気にしすぎるくらい気になっていたのに、
「どうして分からなかったんだろう?」
 と感じるほど、分かってみると何でもないことのように感じられた。
「なんだ、そんなことか」
 というようなことは、今までにも何度もあった、
 そう感じるようになったのは、中学生になってからだったように思えたが、高校生になってこのことに気付いた時、
「そうじゃない、小学生の頃も結構あったような気がする」
 と思ったのは、何かに閃いたからであろうか。
 瀬里奈は、
「人と同じでは嫌だ」
 と絶えず考えているわりには、意外と人のことを気にしていることが多い。
 中学生よりも前に考えていたことに気付いた時にも、
「皆同じようなことを考えているのだろうけど、私の方が多いに決まっているわ」
 と感じていた。
 いつもであれば、そのままスルーするのだろうが、その時は、
「嫌だわ。どうして人と比べたりなんかするのかしら?」
 と、自分で嫌だと思っていることを感じたはずなのに、思ったよりも嫌な気分がしなかったことに気付いて、苦笑いをしていた。
 まんざらでもないと思っているわけはないはずなのに、どうして簡単に自分を許すことができたのだろう。何か納得のいく答えをその時に見つけたというのだろうか。自分ではそんな感覚はなかった。すぐにそんな思いも収束していき、考えることをやめてしまったくらいである。
 人と比べることと、人と同じことというのは、厳密にいえば違っているのだろうか?
 違っているとしても、違っていないと自分で思い込もうとしているのか、思ったことに納得が行ったのか、それとも、そんな理屈を考える前に、無意識に、いや習慣的に人と比べることが見についてしまっているのかのどれかであろう。
 無意識な行動であるとすれば、自分では納得していないはずだ。だが、無意識な行動に対して、
「それは無理もないことだ」
 として、片づけているのであれば、それは自分を納得させる以前の問題ではないかとも思える。
 瀬里奈にとって自分を納得させられるというよりも、無意識な行動は、
「理屈ではない、図ることのできないこと」
 として、それまでの自分になかった感情を、新たに植え付ける必要に迫られているからなのかも知れない。
 それを瀬里奈は、
「大人への階段」
 のように感じていた。
 世間一般に言う、いわゆる
「大人への階段」
 とは違うものだ。
 そんな理屈を考える人など、他に誰もいないだろうと思うと、瀬里奈は自分を納得させることができる。そこまでの考えを結び付けることができたのも、やはり自分が大人に近づいたからだと思えてきた。
 瀬里奈が音を気にするようになったのは、別に中学の卒業前が最初ではなかった。それまでも音に対して気になることもあったが、今回のように、すぐにその理由が分からなかったわけではない。
 分からなかったことがあった場合、瀬里奈は後から思い出して。さらにそれを追求するということはなかった。
 もっとも、思い出したということすら分からず、
「初めて思ったことだわ」
 と感じて、その時初めて納得のいく答えを見つけることもあっただろう。
 ただ、意識の中にはなかったが、何か悶々とした気持ちになった時、そのことを感じるような気がしたくらいだった。
 だが、ほとんどは、その時に分からなければ、
「後から思い出すだろう」
 と楽観的に考えたとしても、もう一度思い出すということはなかったはずだ。
作品名:電子音の魔力 作家名:森本晃次