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電子音の魔力

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――私も誰からも意識されない、そんな存在になることができるかも知れないわ――
 と感じた。
 いじめられっ子だった頃、特にその思いは強く、ただ苛められているだけでは本当に気が滅入るだけだったのだが、自分が他の人と違うという、自分の目指している人間に近づけるのではないかと思うと、ゾクゾクとした震えのような感覚を覚えたのだ。
 いじめられっ子になった原因の一つに、
「人と同じでは嫌だ」
 という性格があるのだと思っていたが、その思いが今度は苛めの苦しみから救ってくれると感じるのは皮肉なことだった。
 だが、それでも感覚的には同じものだった。嫌だと感じる感覚に相違のないことを感じた瀬里奈は、そう思い続けているうちに、苛めもなくなってくると考えていた。
 これは楽観的な考え方とは少し違っていた。
 楽観的な考え方であれば、きっと苛めに遭う前と苛めに遭っている当事者として考えている、
「人と同じでは嫌だ」
 という考えは違っていたように思う。
 しかも、正反対の考え方だったのではないかと思うのであって、その正反対というのが、主観的な考え方と客観的な考え方による正反対だというのか、それとも鏡を見た時に正対する真正面に見えている自分を見ている時の正反対だというのか、それともまったく発想にない正反対だというのか、結局は分からなかった。実際に苛めがなくなってしまうと、今度は正反対だと感じたことをまるでなかったかのように忘れてしまっていた。自分で気持ちを整理できたわけではないので、自然消滅したと言ってもいいだろう。
 そして、この思いを思い出すことになるのは、成人してからであったが、その頃には明らかに思春期に感じた思いとは違うものだった。
 その時に、
――あの時に感じた正反対という思い、今なら分かる気がする――
 と感じたのだが、思春期だからこそ分からなかったのかどうか、成人してからも分かるものではなかったのだ。
 瀬里奈にとってその小説は自分の中で
「バイブルのようなものだ」
 と、言い聞かせるだけのものとなった。
 それでも人と同じでは嫌だという発想とどこで結び付いたのか、苛められなくなってからは、分からなくなってしまっていた。
 瀬里奈が苛めに遭っていた頃と、苛められなくなってから一番変わったことというと、目の前を歩いてきた人に対しての反応であった。
 苛められている頃というのは、反射的に相手から自分の身体を避けようという意識が働いていた。
 瀬里奈は苛めには遭っていたが、それは精神的な苛めであって、肉体的に何かをされるということはなかった。精神的な苛めの方が、肉体的な苛めよりも数段厳しいとよく言われるが、実際に肉体的な苛めを受けていなかったのだから、瀬里奈にはピンとくるものではなかった。
 肉体的な苛めを受けているわけではない瀬里奈だったのに、近くに迫ってくる人間を反射的に避けようとするのはどうしてなのか、自分でもその反応に疑問を感じていた。
 だが、苛めが次第に少なくなりかかった頃から、瀬里奈はそれまで反射的に避けていた人を避けることはなくなった。その意識はすぐにあり、
――どうして、避けようとしないのかしら?
 と感じていた。
 まだ苛めは続いていたはずであるが、避けようとしないことで、自分の苛めが次第に収束してくることを予期しているように思えたのだ。
 実際にそれからどんどん苛めはなくなっていき、その理由として、
「苛めの対象が他に移ったから」
 というものであるという自覚があることから、どうして苛めが収束に向かっていたのかが分かったのか、自分でも不思議だった。
 苛めというのは、人が考えているよりも、本人は意識が強いものに違いない。しかし、それだけに苛められている自分を客観的に見ることができるようになるのも事実だった。実際に瀬里奈も自分が苛められているところを、まるで夢でも見ているかのように感じていた。
「感覚がマヒしてくるんだわ」
 と、感じたこともあったが、感覚は確かにマヒしていたことだろう。
 だが、マヒしていた感覚は自分を客観的に見ることができたからに他ならない。別に自分いなかったものが備わったわけではなく、元から自分の中にあったものが表に出てきたというだけなのだ。
 苛めがなくなってから他の人に苛めの対象が移ったからと言って、自分が傍観者になったわけではない。前述したように、
「傍観者は一番罪深い」
 と感じていたからだ。
 だが、傍観者にならなかった理由にもう一つあった。それは、
「自分のことを客観的に見ることができたからだ」
 と瀬里奈は思っている。
「客観的に見ることができたのは、苛められた自分の感覚がマヒしたからだ」
 と当初は考えていたが、本当にそうだろうか?
 瀬里奈は自分のことを客観的に見ることで、それまで見えていなかった自分を見ることができるようになった気がした。だから、苛めがなくなったのは、確かに苛めの対象が他に移ったからだというのも一つなのかも知れないが、
「自分を客観的に見ることができるようになったから」
 というのも、重要な理由なのではないかと思うようになっていた。
 ということであれば、苛めに遭っていた時に感覚がマヒしてしまったのは、自分が目の前の悲劇から逃げようとしているという思いだったのだが、そうではなかったと言えるのではないか。苛めがなくなって自分を客観的に見ることができるようになったのも、その「逃げ」という感覚が深く影響しているように感じた。
 しかし、逃げは逃げとして。苛めがなくなったのであれば、感覚がマヒしていたことを意識させないように気持ちが作用したり、客観的に自分を見ることを嫌うような感覚になるような気がした。そうではないということは、感覚がマヒすることと、客観的に自分を見ることができるという事実は、苛めという逃げることのできない現実と密接に関わっていたからではないかと瀬里奈は思うようになった。
 苛めと、この小説家が創造した星との関係は、瀬里奈の思春期の中で大きな役割を果たしていたことは間違いないだろう。
 瀬里奈が苛めと密接に関わっていたと思っている自分を客観的に見る感覚、実はその間にも、
「結界」
 というものが存在しているのではないかと考えていた。
 結界にはなるほど、想像を絶するような壁が立ちはだかり、結界の存在は壁を通して背中合わせになっているということの証明でもあるかのように感じる。ただ、結界も完璧ではない。何かの拍子に壁が開いて、向こうへの通路が見えることがあるだろう。
「自分のことを納得させる」
 という感情が、結界と深く関わっているのではないかと、瀬里奈は感じていた。
 苛めと結界の関係は、これからも瀬里奈の中で、
「消えることのないわだかまり」
 のようなものとして存在していくように感じた。
 自分の中にあると思っている、
「エロとグロ」
 それを瀬里奈は感じながら、結界を想像してみた。
「長所と短所は紙一重」
 という言葉も結界という発想に繋がるものがある。
 世の中には対称のものがたくさんある。
 例えば、
「昼と夜だったり、海と空だったり、男と女だったり」
作品名:電子音の魔力 作家名:森本晃次