電子音の魔力
苛めっ子が何を考えているのか、傍観者にも苛められている時の瀬里奈にも分からない。ただ、苛めがなくなって、苛めの対象が自分から他の人に移ってからの瀬里奈には分かる気がした。苛められていた自分への懺悔の気持ちがあるわけでも、苛めをなくそうなどという正義感があるわけでもない。一番近いといえば、苛めを第三者として他人事のように見ている傍観者である。
傍観者が見ているのは、まるで神様に自分たちが被害に遭わないように「お供えもの」として捧げられる、「生贄」のようなものではないか。
「いじめられっ子だったというだけの傍観者」
それが、瀬里奈だった。
そんな瀬里奈が友達をほしいと思うのもおかしなものだったが、やはり自分が苛められた原因である、
「歯にモノを着せぬ言い方」
をするという性格の人が自分のまわりにいるのであれば、どんな気持ちなのか感じてみたいと思ったのだ。
だが、衝突は免れない気がした。友達として成立するものではないことも分かっている。だから瀬里奈が友達として探しているのは、そんな瀬里奈の気持ちを分かってくれる人だった。
「そんなに友達として長続きしなくてもいい」
と思うようになったのは、その時に都合のいい人であれば、それだけでいいと思っているからだった。
――都合のいい相手を友達だなんて思いたくない――
という思いから
「友達なんかいらない」
という思いに至ったのは、瀬里奈の中にある素直な気持ちが、そう感じさせたのではないかと思うのだった。
だが、いじめられっ子だったというのも、ある意味、
「都合がよかった相手」
という意味で、友達という線引きとは似通ったところにいたのかも知れない。
これこそ、
「長所と短所は紙一重」
という考え方に似ているようであり、この言葉があまり人の口から出てこないのは、友達の発想と似ていることから、どちらもタブーなのではないかと感じたからだと思うのは、考えすぎであろうか。
「都合がよかった相手」
という発想から、またしても思い浮かぶのは、自分たちを生贄として、まるで他人事のように冷たい目で見ている傍観者である。
実際に生贄を捧げている時代の人たちは、自分たちに降りかかる災難を逃れようと必死であり、供養も半端ではなかっただろう。しかし、苛めの間で傍観している連中は、そんな供養の気持ちなど、これっぽちも持っていない。
「自分さえ被害に遭わなければそれでいい」
という考えでしかないのだ。
それでも実際には、傍観者が被害に遭うことはあまりない。それだけ傍観者というのが膨大過ぎるからなのか、
「疑わしきは罰せず」
という精神の元、傍観者にバチが当たるということはないのだろうか。
瀬里奈は納得がいかない。いくら自分が苛められなくなろうが、傍観者でいるのは嫌だという思いもあった。
そういえば、いじめられっ子が苛められなくなると、今度は自分が苛めっ子のグループに入っている人がいて、まわりから、
「苛められている人の気持ちが一番よく分かるはずなのに」
と言われているにも関わらず、自分から苛めに走る人もいる。
だが、今の瀬里奈は、
「傍観者になるよりは、まだ苛めっ子になっている方がいいような気がする」
と思うのだった。
いじめられっ子が豹変して、まるで
「ミイラ取りがミイラになる」
というのは、理屈に合っていないような気がしていたが、実際にその立場になってみなければ、その人の気持ちは分からないという意味で、これほど理に適っていることはないのではないだろうか。
だが、この考えは世間一般では、まったく受け入れられるものではないだろう。瀬里奈が自分で勝手に感じていることであるが、それでも傍観者という存在を考えるならば、よほど瀬里奈の考えていることの方が説明がつくように思うのだった。
瀬里奈がこんなにいろいろ考えるようになったのは、やはり自分がいじめられっ子だったことと、
「人と同じでは嫌だ」
という考えの元だったからだ。
いじめられっ子になった原因の一つに、人と調和できないことがあったのだとすれば、それは人と同じでは嫌だという考え方に基づくものだろう。そんなことは自他ともに認めていることで、人は余計なことは言わないが、きっとそう思っているに違いない。
だが、親はその余計なことを瀬里奈にいう。
親とすれば立場的に当然なのだろうが、それが瀬里奈には腹が立って仕方のないことだった。
特に昔かたぎの父親は、人との調和を重視している。そのくせ新しいものを受け入れようとしない頑固なところもあり、それも昔かたぎから来ていることなのだろうが、瀬里奈には到底容認できることではなかった。
瀬里奈が父親に対してもっとも嫌に感じるのは、流行にはまったく興味のない自分が、父親に似ているということだった。
――どうせ嫌いなんだから、余計なところが似ているなど、やめてほしいわ――
と感じていた。
「親子なのだから仕方がない」
と言えばそれまでだ。
瀬里奈は、
「仕方がない」
という言葉をよく口にするが、本当はあまりこの言葉は好きではない。
同じような意味でも、
「無理もない」
と言った方が、いくらか救いようがあると思っている。
仕方がないという言葉には、減算法的な考え方があり、無理もないという言葉には汎用性があるような気がしたからだ。
減算法というのは、最初が百で、そこからどんどん減算していく考え方で、この場合の最初は決して百ではない。しかも合格ラインギリギリのところから、さらに減算して、許容範囲最低限にまで行ったところでやっと妥協するのだ。仕方のないという言葉は、妥協ラインと見てもいいだろう。
しかし。無理もないという言葉には減算法ではなく、加算法でもない、許容範囲となるべく広げるところから始まって、広がった許容範囲の中で、自分が納得できるだけのラインを求めようとしているものだと解釈している。
また、仕方ないという言葉と、無理もないという言葉の対象は、相手によって変わってくるものではないだろうか。瀬里奈は父親に対しては無理もないという言葉は使えないと思っている。すでに許容範囲を広げることのできないところまで来ているからだ。
そんな父親に対して瀬里奈の中で許せないという思いが強く印象に残っているのが、
「人と同じでは嫌だ」
という思いだった。
瀬里奈は中学生の頃までは、
「人と同じでは嫌だ」
という本来の考え方を持てないでいた。
つまりは子供だったと言えるのかも知れないが、知ってしまうことで、さらに自分が意固地になってしまうことに気付いていなかった。
瀬里奈が考えている、
「人と同じでは嫌だ」
というのは、あくまでも父親への反発から生まれたものだった。
確かに、生まれ持った性格の中に、その思いがあったのも事実だろう。いくら父親に対しての反動だとはいえ、自分の発想が自分でも想像もしていないところまでやってくることを理解できないでいたからだ。
理屈っぽくなったのも、そのせいかも知れない。
「あなた変わってるわね」
と人から言われると、
「ありがとう」
と素直に返すことだろう。
きっと相手は、