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電子音の魔力

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 きっと何を考えているのか分からないというのが一番の理由だったのだろう。瀬里奈も自分のことを棚に上げて、まわりの人と共鳴しようという気持ちにはなれなかった。誰かと友達になろうとするのであれば、正直に自分を表に出して、それでも友達になってくれる人でなければいけないということは分かっていた。
 小学生低学年の頃から、言いたいことは何でも言っていたような気がする。もっともそれくらいの年齢であれば、それは十分に許されたことであるが、相手を傷つけることもあっただろう。傷つけられた方も、相手の言うことが悪いのか、それとも自分が悪いのか分かっていない。だからこそ余計に瀬里奈の方が悪いと分かってしまった時に、怒りがこみあげてくるのだろう。

                結界と謎の星

 瀬里奈は小学生の低学年の頃、苛めに遭っていた。瀬里奈自身には、
――どうして苛められなければいけないのか分からない――
 という思いが正直あった。
 ただ、それはある意味、無理のないことであった。低学年の頃、相手を傷つけるようなことを口にして、せっかく仲良くなろうとしてくれた相手に対してその時は気まずい雰囲気だけを残して、お互いにぎこちない状態になった。だが、そのぎこちなさは、相手にとって自分を分からなくさせてしまう原因であり、
――なぜ、自分がこんな中途半端な気持ちにならなければいけないのか?
 と感じ、瀬里奈に対してだけではなく、他の人に対しても、
「あんな人だったかしら?」
 と思わせて、さらに瀬里奈に関係のないところでぎこちない雰囲気を作ってしまうことになる。
 しばらくすると、その人もそんな自分のおかしなぎこちなさが、瀬里奈との間のぎこちなさから来ていることに気付くだろう。そうなると、一気に恨みは瀬里奈に向けられる。
 子供というのは、時として残酷なもので、自分が味わった思いを相手にも味わわせてやろうと思うと、容赦しないものである。あることないこと、瀬里奈の悪口をまわりに吹聴する。
 瀬里奈にとってそんな人がその人だけであれば、吹聴されたところでそんなに問題になることはないのだろうが、一人に対してそんな態度を取ったのであれば、他の人にも同じような態度を取っていないとどうして言えるだろう。瀬里奈に関わろうとした人が同じような思いをして、紋々とした気持ちでいたとすれば、その話を聞いて、同調するのも当たり前というものである。
 そうなると、
「絵里奈包囲網」
 が形成されて、まわりからは無視されたり、苛めの対象になるのも時間の問題であった。
 子供の頃の苛めというのは、えてしてこういうところから始まるのかも知れない。苛めっこにもいじめられっ子にもその意識はない。苛めっこには誰かを苛めているという意識がなく、いじめられっ子には、どうして自分が苛められるのか、その理由が分からない。そのうち苛めている方も苛められている方も感覚がマヒしてくるのか、それが日常になっていくのだろう。
 だが、苛めっ子といじめられっ子、どちらが最初に我に返って、その時の自分の状況に気付くのかというと、いじめられっ子の方ではないだろうか。苛めている方は、苛めの対象になっているいじめられっ子が変わらなければ、決して自分が苛めっ子であるという意識がないだろうからである。
 苛めっ子の方は、一度苛めに目覚めてしまうと、なかなか抜けられないのではないだろうか。きっとまわりは、
「苛めっ子」
 というレッテルをその子に貼ってしまう。
 もちろん、そのことを苛めっ子も分かっていることだろう。だから、苛める相手がいなくなったり、苛める理由がなくなったとしても、別の対象を探し、苛めをやめようとしない。
 苛めっ子は、自分が苛めっ子だという意識はあるのだろう。だから、苛めの対象になっている相手が、どうして苛められるのかという理由は自覚しているはずだからである。
 苛めっ子の正当性を世の中では認めてくれる風潮にないため、
「何を言っても、しょせん自分は苛めっ子なんだ」
 という意識があるから、自分からその正当性を訴えようとはしない。
――ひょっとすると、苛めという行為に対して、一番理不尽さを感じているのは、苛めっ子ではないだろうか――
 いじめられっ子だった瀬里奈が苛められなくなって、苛めっ子というものを考えた時に感じたことだった。
 瀬里奈がどうして自分が苛められなくなったのか、その理由は分からない。自分が苛められる理由は、途中からではあったが分かっていた。分かっていたが、すでに苛められるようになってしまっていたのでは、後の祭りなのだ。
「苛められるから、苛めに遭う理由が分かる。だが、苛められてしまっていては、すでに後の祭りである」
 どうしようもない気持ちがいじめられっ子にはあり、その思いがあるから、もう苛められることはないだろう。
 しかし、苛めっ子の方は、最初から理屈が分かっている。分かっていて苛めという行為を止めることはできない。その人が持って生まれた、いや、ひょっとすると人間というものが潜在的に持っている凶暴性が、苛めという形で表に出るのだとすると、いじめられっ子になった人も、一歩隣の道を通っていれば、苛めっ子になっていたのかも知れない。
「いじめられっ子がいるから苛めっ子がいる。だから苛めはなくならない」
 という当たり前の話をテレビで学者が言っていたが、まさしくその通りで、
「いじめられっ子も、苛めっ子になる素質は十分にあるのだから、どちらになるかは、紙一重だ」
 と言えるのではないだろうか。
 どちらにも加わっていない第三者を装っている傍観者がいる。こちらに対しては、
「第三者を装う傍観者も、苛めっ子と同罪です」
 とその学者は言っていたが、苛めを受けなくなってからの瀬里奈は最初、
「その通りだわ」
 と感じたが、実際にはそうではなかった。
「第三者を装う傍観者の方が、よほど罪深い」
 と感じるようになった。
 自分の気持ちを押し隠して、苛めという行為を傍観している。かといって、自分が苛めているような感覚になっている人は少ないのではないか。どちらかというと気持ちはいじめられっ子に近い、苛められている人を他人事として見ているのだ。
「下手をすると自分がいじめられっ子になっていたかも知れない」
 という思いが、傍観者の気持ちを支配しているのだと、瀬里奈は感じていた。
 いじめられっ子が考えていることに、傍観者は近いのかも知れない。決して苛めっ子の気持ちに立っていじめられっ子を見下げているわけではない。
――あれが自分ではなくてよかった――
 という安堵の気持ちからいじめられっ子を見ているので、いじめられっ子には見下げられているように見えるのだ。
 苛めっ子からすれば、傍観者は目に映っていない。まるで石ころのような存在にしか見えていないのではないだろうか。
作品名:電子音の魔力 作家名:森本晃次