短編集69(過去作品)
ハンバーグの焼ける匂いが漂っている感じがする。少し焦げたハンバーグを想像するのは、いつも母親のハンバーグの表面が焦げているからだ。ただ、ハンバーグの匂いを嗅いだからといって腹が減ってくるわけではなかった。むしろ、ハンバーグの匂いがない方が空腹感を煽るのだ。
ハンバーグが嫌いな食べ物というわけではない。嫌いな食べ物の匂いを空腹の時に感じるというのもおかしな話なのだが、なぜか匂いを感じると、今度は満腹感も一緒に襲ってくるのだ。
匂いだけで食べたような気になるのは、夕凪の時間帯だけであった。他の時間帯に感じれば素直に空腹になる。ただ。他の時間帯でハンバーグの匂いがしてきたことがないので、満腹の原因が夕凪の時間帯にあるのか、それともハンバーグの匂いにあるのかという問題の回答にはなっていないのだ。
向かいのビルに当たる日差しを避けることもなく顔に浴びていると、時々感じる白い閃光に思わず目を逸らしてしまうが、
――この一瞬で、どれだけのことを思い出したり、忘れていったりするのだろう?
と思うのだった。白い閃光には、どうやら思い出すことだけではなく、忘れてしまうことの能力もあるようだ。私の中にある機能に光が反応しているのだ。
約束の店に行くと、すでに坂口は来ていた。私が来たことに気付いていないようで、どこか上の空の雰囲気が漂っていた。私はあまり目がいい方ではないので、ハッキリと表情を見て取ることはできないが、表を見ているようで、視線は明後日を眺めていた。
しばらく待ったのだろう。灰皿には何本もタバコの吸い殻が残っていた。吸い殻の数が坂口の落ち着きのなさを表しているようだった。
坂口はあまり悩みを表に出す方ではないが、たまに悩みといって打ち明けられると、意外とそれほど大きな悩みではないことが多かった、半分大雑把に聞いていた方が的確なアドバイスができるかも知れないと思うくらいだったのだ。
時間と環境の変化で人は変わるもの、知らない間に坂口が変わっていないとは言い切れない。しかも就職してからほとんど連絡を取っていないのだから、まったく違った環境になったため、連絡を取らなかったのかも知れない、私の場合は環境が変わったことが明らかに学生時代の知り合いと縁遠くなってしまったのだった。
坂口が私に気が付いたのは、ふいにこちらを振り向いたからだった。
「あ、来てくれたんだね。ありがとう」
私の顔を見てびっくりしていた。顔の向きを変えると、目が合ってしまったという感じだった。まさか坂口に礼を言われるとは思わなかった。確かに呼び出したのは坂口なので礼を言われることに違和感はない。だが相手が坂口だということになれば別である。お互いにあまり気を遣うことはしないでおこうというのが学生時代において暗黙の了解となっていた。それなのに礼を言ってくれたということは、礼を言うのがくせになっているのかも知れない。社会人になって変わったことの一つとして、不思議のないことだった。
礼を言われた私はしばし驚きから何も言えなかったが、すぐに我に返り、
「どうしたんだい。君から連絡してくれるとは思わなかったよ」
と言いながら、彼から連絡をしてくれなければ、私から連絡を入れるようなことをするはずもない。このまま音信不通になっていたかと思うと、礼を言わなければいけないのは、本当は私の方だった。
先に礼を言われてしまっては、こちらから礼を言い返すということは、坂口と私の間では考えにくいことだった。お互いに気を遣わないようにしようとしていた真の理由は、余計なことで会話の無駄を作りたくなかったからだ。
私はコーヒーを頼んだが、坂口のコーヒーがタバコの本数に比べれば半分以上残っているのが少し気になっていた。
――きっとイライラしていたんだろうな――
コーヒーを飲む暇もないくらい口にはタバコが咥えられていたということだろう。学生時代からタバコは吸うがヘビースモーカーというわけではなかった坂口がここまで吸っているということは、日ごろからストレスを溜めているということなのだろう。
「仕事は忙しいかい?」
「そうだね。それなりに忙しいよ」
私は差し障りのない話題のつもりだったが、彼の期待している話題ではないようだ。
「お姉ちゃんの店には相変わらず行ってるのかい?」
「うん、寄らせてもらってるよ。お姉ちゃん言ってたぞ。最近、弟があまり帰ってこないって」
坂口は今一人暮らしをしている。社会人になって最初に赴任したところが自宅から通えるところではなかったので、部屋を借りた。一人暮らしを始めると今さら家には帰りたくないと言って、家から通えるところに転勤になったにも関わらず、一人暮らしを継続していた。
「一人暮らしを謳歌しているとでも言っておいてくれ」
姉の店に顔を出さないのは他にも理由があるのかも知れない。ひょっとして誰か女性と同棲でもしているのではないかと疑いたくなってきた。
私の想像は当たらずとも遠からじのようだ。同棲とまでは行かないが、「通い妻」風の女性がいるという。坂口は自分から口にすることはないが、きっとその人を失いたくないと思っているに違いない。今日の話はひょっとするとその人の話かも知れない。
なかなか坂口は話を切り出さない。世間話や会社の話に終始していたが、そのうちに話題も少なくなってくると、少し重たい空気になってきた。
「彼女がね。どうやら、結婚願望を持っているようなんだ」
「女性とすればそうだろうね。それで坂口の方はどうなんだい?」
「付き合い始めは確かに結婚を前提に付き合ってもいいと思って付き合っていたんだ。俺ってただ好きになったということで女性と付き合うことはしないのを君なら分かると思うんだ」
確かに坂口は学生時代から相手を真剣に想い始めない限り付き合うことはしなかった。それは結婚を前提とまでは行かなくても、いずれはという気持ちがあった。逆にその気持ちが強すぎて女性からすれば重荷になることもあっただろう。坂口から去って行った女性の何人かがそうだったのだ。
坂口に対して憧れを持つ女性は多かった。付き合い始めが慎重であるというのもその一つで、中途半端な気持ちで付き合っているわけではないところが、女性の気を引くのだ。だが、いずれ重たくなってしまうことを女性の方が分からない。最初からお互いに真剣な気持ちでいれば、別れることもないと思うからであろう。だが、どちらも重たいとどちらかが挫折した時は、戻ることができなくなってしまうことがあるようだ。坂口に妥協はなく、それが女性しては、相手の冷たさを感じるということになるのであろう。
もっともそれは学生時代の坂口から変わっていなかったらの話であるが、女性に関しては変わることはないと思う。ただ、坂口に対して「通い妻」までしようという女性がいるとは意外だった。まさに殊勝な女性と言えるのではないだろうか。
「彼女とは、最初から何か感じるものがあったんだよ。ただ気が合うというだけではなくってね」
ただのノロケにも聞こえるが、それだけではない。彼女に対して坂口がどれだけの自信を持っているかが伺える。
――坂口って、ここまで自信家だったかな?
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次