短編集69(過去作品)
いや、忘れてしまったわけでもなさそうだ。無理にでも忘れてしまったのなら、我々が訪れた時、困惑の表情を浮かべて当然である。そんな雰囲気も表情もまったく感じられないことから、忘れることなく、先輩への思いを「思い出」として残し、それを糧に生きて行こうと思っているのかも知れない。
――割り切っている――
という一言では表現できない関係が、先輩と香織の間には存在しているのかも知れない。
そう思うと、私とゆかりにも、そんな思いが湧いてきそうな気がした。それは今湧き上がったものではなく。以前にも感じていたものを思い出したような感覚だ。初めて今回出会ったはずのゆかりに対してそう感じるのは、今朝見た夢の影響が大きいのではないだろうか。
ただ、夢も漠然と見るものではない。そこには必ず潜在意識というものが働いていて、ゆかりに対しての気持ちが夢という増幅装置から湧いて出たというのも、あながち大げさなことではないように思える。
完全に目を覚ました私は、宿の人に、ゆかりの行方を聞いてみた。
「永平寺に東尋坊の話を聞いていましたから、観光に行かれたのかと思ったんですよ。でもお連れ様がまだいらしたので、おかしいなとは思いました」
それでも余計なことを聞くわけにはいかない。宿の人のギリギリの判断ではないだろうか。私も永平寺や東尋坊の話を聞いて、後を追いかけることにした。
どちらも全国的には有名で、永平寺は禅寺として、東尋坊は自殺の名所としてのありがたくない名前を拝命しているようだ。
永平寺に向かうとすでにゆかりはいなかった。そのまま東尋坊に向かったが、永平寺に行ってから東尋坊に行くと、直接向かうよりもさらに自殺する人には覚悟が決まるのではないかと思えてきた。
もっとも、自殺する人の覚悟は永平寺にも渦巻いていたような気がする。禅寺なので、自殺する人の気持ちを鈍らせるものなのかと思ったが、そうでもなかった。宿を出て永平寺に向かう間に、自殺する人の心境が湧いてくるような気がした。
――死ぬことは怖いが。自殺ということであれば、なぜか怖くない――
という心境になってきた。
自殺には覚悟が必要であるが、いきなり来るものではないから怖くないのだろうか?
私の中では、自殺への覚悟は次第に感覚がマヒしてくるものだという思いがあった。自殺を思いつけば、その勢いで行動を起こさないと、ためらってしまい、最終的には自殺への覚悟が萎えてしまうものだというのが普通の考えであろう。
「一度失敗すれば、もう一度自殺しようという気にはなかなかなれないものだよ」
という話を聞いたことがあったが、自殺未遂をする人は、何度でもしてしまう。手首にいくつもの躊躇い傷、それをつけた時の記憶は、普段からあるのだろうか?
私は自殺を考えたことがないのに、今は自殺を考えている人の心境が分かる気がする。――自殺って、本当は本人の意思が働いていないのではないか?
と思うようになっていた。
金沢の時もそうだったが、永平寺も東尋坊も初めてきたような気がしなかった。遠い昔の記憶が呼び起こされ、懐かしさを感じている時、私はまるで浦島太郎になったかのような錯覚を覚えた。
永平寺では、これから自分がどうなるのかを悟った場所。それは自分が「どうするのか」ではない、あくまでも「どうなるのか」という、まるで他人事のような気持ちであった。
永平寺が禅寺であることは、永平寺の存在を知る前から知っていた。さらに東尋坊も自殺の名所としてテレビドラマなどにしょっちゅう登場しているが、テレビで見かける断崖絶壁とは別に手前に観光客用のスポットがあるが、そこも初めて見るはずなのに、懐かしさがあった。
「似たような観光地はいっぱいあるからね。一度どこかで懐かしさを感じたら、それ以降も初めてみたはずなのに、初めてではないという錯覚を覚えるのも分かるというものだよ。それこそデジャブではないのか?」
このセリフは先輩のものだった。
今までに何度も聞かされた先輩の考え方だが、先輩という人を知らなければ、先輩の話が支離滅裂に聞こえるかも知れない。だが、先輩の話しにはいつもつながりがあり、一度聞いただけでは分からないところもあることから、勘違いされやすい。
「勘違いする人は先輩の小説を読んでみればいいんだ」
と言いたいくらいだが、そんな人に限って、小説を読んだりしないに決まっている。
小説というのは、読み始めれば嵌って読むのだが、読み始めるまでの最初が肝心で、興味を持たなければそこで終わってしまう。
「だから小説は最初の書き出しが大切なんだ」
と、よく言われる。
「小説家は最初の書き出しができれば、そこで赤飯でお祝いしたいくらいの気分になるらしいぞ」
と大げさではあるが、そんな話もしてくれた。確かに興味を持つか持たないかは、最初で決まるのは当たり前のことである。
私も小説を書いていて、本当はそこまで気にしなければいけないのだろうが、書き出しで詰まってしまっては、先に進まない。これは読者だけでなく、作者にも言えることである。
デジャブという言葉が最近はよく頭に引っかかっている。金沢、永平寺、東尋坊とそれぞれに懐かしさを感じたからだというのもあるが、それ以前に、そう、先輩が失踪したと聞いた瞬間から、私にはデジャブが感じられたのだ。
――ということは、先輩の失踪を予期していた?
予期していたというよりも最初から分かっていたと言った方が正解かも知れない。ゆかりにも、香織にも言えないが、これも懐かしい部類の感覚に入るからだ。
先輩が失踪したのが、女性を追いかけることにあったというゆかりの考えに私はずっと違和感を持っていた。聖人君子でもない先輩ではあったが、女性を追いかけるというタイプではないと思ったのだ、
――ではどうするというのか?
おのずと浮かんでくるのは、自殺ということであった。ゆかりにくっついてここまで先輩を追いかけてきたのは、女性としてのゆかりの立場からではなく、先輩に対して自殺という言葉を思い浮かべたからだった。
自殺には勇気がいる。先輩にはその勇気が持てる気がしたのだ、自殺する勇気さえ持ってしまえば、あとは楽になるだけであろう。
しかし、なぜ自殺しなければいけないのか、理由が分からない。不倫相手と別れたからと言って自殺の動機になるとは思えないからだ。
自殺するための勇気、不倫相手の女性と別れたことが結びついたとしても、両方の比重があまりにも違っているようにしか思えない。
そこで考えたのが、
――自殺には本人の意思が働かないものもあるのだ――
という発想であった。
アニメで見たストーリーを思い出していた。
何かを手に入れるために、メフィストと取引をする主人公、それは名声であったり、栄光であったりその人にとってさまざまである、どんなに努力しても叶わないものを、魔力によって手に入れる。ただ、その見返りとして魂を抜かれるという内容である。
ただ、魂を抜かれることを意識してしまうと、どうしてもたじろいでしまう、そのため、自殺という自分の意思の働かない種類のあるものに委ねるということで、怖さは半減するだろう。
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次