短編集69(過去作品)
先輩は思い詰めるタイプなのかも知れない。香織のことでまだ引きずっているものがあったのか、毎日のように電話を掛けてきたという女性。私には香織以外には考えられないが、果たしてそうなのだろうか。ゆかりの方を振り向いたが、まったくの無表情である。金沢であれだけ香織に食って掛かったゆかりが、山中温泉ではまったくの無表情で、自分から何かをしようという気配はまったくない。
私とゆかりは、この宿に一泊することにした。さすがに老舗旅館、尋ね人という使命がなくて、遊びに来たのであればどんなにくつろげるだろう。先輩は一人部屋に籠り、小説を書いていた。その時の心境を図り知ることは、私にはできないだろう。
仲居さんの話では、いかにも芸術家と思しき人が、一人自分の世界に入り込み、新たな世界の創造を愛しんでいるように思える。好きなことを何も考えずにできるのであれば、本当にどんなにかいいであろうか。先輩は少なくとも香織という女性にオンナとしての癒しを感じ。俗世にどっぷりと浸かってしまった時間を、どのように思っているのだろう。「桃源郷」を求めているという話をゆかりから聞かされたが、それとはあまりにもかけ離れた先輩の行動に、私は癒しすら感じていた。
「先輩も人間だったんだ」
という思いが強く、先輩に対してのイメージを若干修正しなければならないと思うほどだった。
「私も桃源郷のような話を書いたことがあったんですよ」
ゆかりが呟いた。
「桃源郷を信じるんですか?」
「ええ、あると思っている方が楽しいじゃないですか」
ゆかりのセリフとは思えなかった。ゆかりはもう少し現実的だと思っていたので意外だった。逆に現実的な自分が桃源郷を信じているなどゆかりにしてみれば、照れ隠しでもあったのだ。
遥かなる
彼方の果てに光る海
そこに見えるは桃源郷なり
「あの人が待ってるのよ」
朝目が覚めた瞬間に、ゆかりが言った。夢を見て飛び起きたのだろう。額には汗を掻いていて、呼吸も乱れていた。
「どうしたんですか。一体?」
「ごめんなさい。どうやら私夢を見ただけなのね」
時計を見ると、まだ五時前だった。私も熟睡している時間だったので、まったく時間の感覚もなく、普段ならいい加減にしてくれと言いたいほどだった。
目が覚めて徐々に意識が戻ってくると、表から聞こえる川のせせらぎが気になり始めた。嫌な気がするわけではない。せせらぎは子守唄代わりになるもので、昨夜寝る時も、せせらぎを聞いているうちに、いつの間にか眠っていたというのが本音だった。
普段からあまり寝つきのいい方ではない私は、夜が更けて来れば更けてくるほど目が冴えてくる。眠たいと思った時に寝てしまわないと、今度は眠れなくなってしまう。そして気が付けば、いつも何かを考えているのだ。
余計なことを考えているとは思っていない。何を考えているのかはその時によって違うのは当然だが、後になって、必ず思い出すことで、その時に少なからずに役立つことでもあった。それだけに眠れないのも、あながち悪いことではないのだが、朝の目覚めの悪さを思うと、困ったものであることには違いない。
「大丈夫ですか? まだこんな時間なので、もう一度眠ればいいですよ」
朝からの予定は、元々余裕を持つつもりでいた。ここ数日の疲れを癒しながらの行動でもいいと想っていたからだ。もう一度寝て、目覚めた時間を行動開始にすればいいのだと思ったからだ。まさか昼まで眠り続けることもないだろう。
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
二人は再度眠りに就いた。だが、目を覚ました時には、ゆかりの姿は消えていたのだった。
眠っていた時に、私はゆかりの夢を見た。ゆかりとは以前から知っていた仲のような気がしていたが、夢の中でその思いが少し明かされた気がしていた。私とゆかりが知り合ったのは小学生の時、私が苛められている時、遠くから見ていた女性の存在を感じていたことがあったが、
――どうして見ているだけで助けてくれないんだ――
と、恨めしい気持ちになったことも一時期だけあった。
ゆかりという女性は、私にとって「冷めた女性」というイメージが最初から受け付けられた。それはまるで会った瞬間よりも以前に冷めた空気を感じたからではないかと思っていたが、それが証明された気分がしたのだ。
だが、よく考えてみると、彼女がそこで私を助けてくれたとしても、苛めっ子の気分からすればどうなのだろう? 面白くないに違いない。彼女がいない場面でどのような報復があるのかと思えばゾッとしてくる。その時だけの助けが、それ以降に巻き起こる矛先は、すべて私に飛んでくるのだった。
ゆかりの視線がそれを物語っていた。それを分からせてくれたのが、先ほどの夢だったのだ。今までの胸の閊えの一部が、夢によって解消された気がし、さらにゆかりに対してのイメージが少し変わってきた。
だが、ゆかりの夢を見たことで、ゆかりに対してのイメージが悪い方に変わっていった気がしてきた。
――だが、待てよ?
本当に自分が苛められっこだったのかが、今思い出そうとすると、すべてが幻だったかのように思えてきた。苛められっこだった時点に夢の中で戻ることで、今度はそこから今の自分を見つめなおそうとする。しかし、今の自分に近づくにしたがって、どんどん枠から逸れていくことにも気づいてきた。
――今の俺の記憶って、誰のものなのだろう?
誰かの記憶が自分の記憶とあいまって、記憶が錯綜し、何が真実なのか分からなくなっていったのである。
苛められっこだったという記憶はまるで昨日のことのようである。取ってつけたような記憶、そこには今まで時系列で並んでいたものが崩壊しているかのようだった。
まず、苛めっ子の顔が浮かんでこない。皆眩しい光をバックに、シルエットに浮かんでいる。表情を垣間見ることはできないが、ニヤけた顔は薄気味悪さの中で、竦んでしまった足を、前に進めることはできなかった。
怖いというイメージだけが植え付けられ、曖昧な記憶がさらに恐怖を煽りたてる。記憶が定かでないというよりも、ハッキリとしている記憶が自分のものかどうか分からないことが、一層恐怖に駆り立てられるのだった。
自分だけが他の人と違って、未来を見れたらどれほどいいかと思ったことがあった。過去を知りたいと思うことはあったが、未来を知りたいと思うことはなかった。未来を知ることは恐ろしいことで、何よりも楽しみがなくなるではないか。
いや楽しみがなくなるというよりも先のことを知ってしまうと、どのように行動していいのか分からなくなるはずだ。決まった時間に刻まれて自分の未来が決まってくる。それを先に知ってしまうと、プロセスが分からないままに結果だけがある形である。辿り着かなければいけない未来に対して。余計な先入観が入ってしまうことで、迷いが生じてしまうだろう。
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次