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短編集69(過去作品)

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 彼女は確かに家庭に帰っていった。ゆかりの話しでも彼女の後ろに先輩の影は感じられない。それでも香織に会ってみようと思ったのは、少しでも何かの手掛かりが見つかるかも知れないという切ない思いと、私自身は、先輩が好きになった、あるいは先輩を好きになった相手を見てみたいという思いが強かったからだ。ゆかりもひょっとすると同じような思いを抱いていたのかも知れない。
 別れて、家庭に戻ってみたのだが、何かが違うと思ったのではないだろうか。ただ、それは先輩と出会う前の家庭とは違っていたはずである。同じであれば、まったく進歩していないということで、今度はまた違う相手を探すのではないだろうか。先輩をもう一度気にするということは、戻ってみたところが、自分が予想したところとは違っていたから、もう一度やり直したいという気持ちになったのかも知れない。
 それはあくまでも自分勝手な立場から見たもので、先輩に対しての気持ちを考えてのことであろうか?
 一度は覚悟を決めて離れたのだから、感情で動くことは少ないかも知れない。私のとって先輩のイメージが少しずつ変わりかけていた。
――それにしても、ゆかりはどうして私を連れて先輩探しに出たのだろう?
 同級生でもない私は、確かに先輩に可愛がられてはいたが、一番仲が良かったとは思っていない。先輩が私のことをゆかりに話していることは確実だが、どのような話をしたというのだろう。
 先輩が人のことを私に話すことはあまりなかった。どちらかというと、幻想的な話に話を咲かせる方で、現実的な話はほとんどなかった。
 それだけに先輩を過度に評価していたのかも知れないとさえ思っているほどだ。人の評価をするなど、私にはおこがましいが、先輩の度量の大きさからは他の人とは比較にならないオーラを感じていた。
「北陸本線で西に行くと、そこに加賀温泉郷というのがあるのをご存じですか?」
 しばらく黙っていた香織が口を開いた。
「ええ知ってますよ。山中、山代、片山津と、結構有名ですよね」
「その中の山中温泉に山水閣という老舗の旅館があるんですが、そこに名高さんはいるかも知れませんね。実は私と以前に一度ご一緒したことがあったんですが、名高さんは相当にその場所に魅入られたようで、私との別れ話が出たのもその後だったように思います」
「山水閣ですね。分かりました」
 ゆかりはそこまで言うと、もうこの場に用はないというくらいに意気込んでいるように思えた、そんなゆかりを見ると、私は思わず引いてしまう。ここまで一緒についてきたのだから、最後まで一緒にと思う反面、このままずっとゆかりと一緒にいていいものなのだろうかという気持ちになったのも事実だった。
 ゆかりには神秘的な美しさを感じる反面、どこか一本気で、ちょっと触れば折れてしまいそうな雰囲気も感じられた。
 普通であれば、
――私が守ってあげないといけない――
 とまで思うのだが、ゆかりには、近づくことのできない壁すら感じ、近づくと、逃げられない気持ちにさせられる。一度逃げを感じてしまうと、恐ろしさを忘れられず、二度と近づこうとは思わなくなる。最初に感じた壁が現実のものとなって私の前に立ち塞がる。逃げていると、容赦なく襲ってくるようで、後ろを振り向くこともできない。
 この感覚は男性に感じたことはない。いつも女性だった。女というのが神秘的だと思えば思うほど、怖いという感覚もハンパではないのだろう。
「結婚は人生の墓場」
 と言われるが、なるほど、一度結婚してしまうと、もう後戻りはできない。友達は変えることはできても、奥さんを変えることなどできっこないのだ。
 それは世間体という意味でもそうであるし、子供でもできれば、また違ってくる。ただ、離婚の原因に子供を上げる人が多いが、
「奥さんは他人だけど、子供は自分の血が繋がっているからな」
 子供を巡っての夫婦の教育方針の違いなどが離婚の原因になるのだとすれば、それは何とも寂しい気がする。
 私とゆかりは、さっそく翌日、山中温泉に移動した。山中温泉は名前の通りの山の中にある温泉で、落ち着いた佇まいも感じさせる。私たちは予約しておいた山水閣に赴き、まずはそれとなく仲居さんに、名高先輩の話をしてみた。
「その方でしたら、数日前までお泊りいただいていましたね。滞在の予定は一週間となっていましたが、数日でお帰りになられましたよ」
「何か変わった様子はありませんでしたか?」
 それを聞くと少し訝しがった様子を見せたが、それでもすぐに笑顔を見せて、
「そんなご様子はありませんでしたね。慌てている様子もありませんでしたし。落ち着きすぎるくらいに、落ち着いていたと思います。若いのにすごいなと思いましたよ」
 仲居さんの年齢は三十歳代であろうか、家に帰れば優しい夫と可愛い子供がいるのではないかと思わせた。
「ここにいる時はずっとお部屋にいたんですか?」
「ずっとではなかったですね。一日のうちに何度もお散歩に出かけておいででした。そうですね。二、三時間に一度くらいの割合で、お出かけだったかも知れませんね」
「この部屋では何をしていたか分かりますか?」
「ノートパソコンを広げて、何かずっと作業されていたようですよ。絶えず、キーボードを打っていたように思いますからね」
 先輩は小説を書く時、自分のノートパソコンを使って書いている。これは先輩に限らず誰もが同じなのだろう。私もそうだし、部員のほとんどがそうだった。
「誰かが訪ねてくるようなことは?」
「ありませんでしたね。でも、一日に一度くらいの割合で、お電話が入っていましたね。時間的には夕方から、夜の間くらいだと思いますよ」
「誰なんでしょうね?」
 私がゆかりに耳打ちすると、
「どうやら、女性のようでしたよ」
 と仲居さんが答えてくれた。私はそれが香織であると直感した。
――一体、どんな話をしていたのだろう?
 香織は先輩がここにいることを知っていたのだ。確信しているうえで、私たちに山中温泉を訪ねるように仕向けたのだ。ただ、私には何となく、香織が最初から分かっていたような気がしていた。確信を持ったのは、先輩に電話が毎日入っていたという話を聞いたからだ。
「誰なんでしょうね?」
 と聞いたのは、あくまでも確信を持ったうえでの確認だった。女性だと聞いて、さらに確信を深めたのだ。
 先輩はここでずっと小説を書いていた。それが何を意味するものなのかは分からないが、一週間の予定を早めに切り上げたのは、小説が完成したからではないだろうか。
――俺が危惧するほど、先輩に心配はいらないのかも知れない――
「ところで、次はどこに行くか、何か言っていなかったですか?」
「いいえ、詳しいことは言っていませんでしたね。ただ、この温泉気に入ったとは言ってくれました。だから私も、どうしてそんなに急いでお発ちになるのかと聞いてみたんですよ。すると、ここに私の存在はもういらないとおっしゃって、笑っておられましたね。私もいつもでしたら一緒に笑顔を見せるんですけども、その時だけは、笑う気にはなれませんでしたね。よくよく何かの事情があるのかとも思いましたよ」
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次