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短編集69(過去作品)

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「香織さんのおっしゃることはよく分かりました。どうやら、あなたの言葉に嘘はないようですね。今日は本当に失礼しました」
 そういってゆかりは立ち上がろうとしたが、それを制しるように香織が口を開いた。
「あなたたちには嫌な言い方になるかも知れませんけど、名高さんは、他の人には決して見せないところを私にだけ見せてくれていたんですよ。それを自分でも公言していましたからね。でもそれが嘘じゃないことは私には分かりました。今こうして私を訪ねてくれたお二人にこの話をして、お二人ともあまり驚かなかったですよね? ということは、彼は私以外の人には同じことを言わなかったということですよね」
 確かにそうだ。私は香織の話を聞いてもピンと来なかったのだ。もし、苦虫を噛み潰したような嫌な表情を少しでも浮かべれば、名高先輩が私たちに話したことを他の人にも話しているのだと思う。特に二人だけの話の中でのことだと思っているだけに、人から聞かされると、嫌な気持ちになるというものだ。
 名高先輩は、少なくとも香織さんに一目置いていたに違いない。ゆかりでは求められないものを確かに香織に求めていた。それはお互いに確かに癒しを感じることであったに違いない。
――癒しって何だろう?
 言葉では聞いても、それがどんな意識のものなのか分からない。
――眠気を誘うような心地よさ――
 私はそんな風に思っていた。あくまでもお互いに出し合ったものを相手が感じるというイメージである。
 私には惹き合うものがあるのではないかと思う。相手が出したものを感じ、さらにこちらもそれに応じて出すようなキャッチボールであれば、心地よさは半減してしまうだろう。本当の癒しは醸し出される匂いを感じ、こちらも感じるままに出すオーラを相手が癒しと感じてくれる。つまりは、自分が出したものが増幅されて戻ってくる。それこそ「癒し」と言えるのではないだろうか。
 先輩は香織さんに、香織さんは先輩に感じた。お互いが増幅するのだから、どちらかだけが感じるというのではおかしい。本当の癒しは、お互いに感じ合うものなのだと思うのだった。
 どちらか一方しか癒しを感じないのであれば、片方の人は、相手のために犠牲になっているのかも知れない。本人とすれば、
「この人のために」
 という思いを抱かせることで、お互いの気持ちの均衡を守ろうとする。先輩と香織の間にはそれは存在しないようだ。
 別れるにあたっても、お互いに納得のいく別れ方だったようだ。
 付き合っている意義について、二人はいつも考えていた。別れについても覚悟していただろう。
「必要以上にあの人を好きにならないようにしていたわ。でもそれって結構きついことなんですよね。きっと彼も同じ思いだったに違いないと思うの。私には絶対にそんな姿は見せないんだけどね」
「あなたに甘えるような素振りは?」
「ありましたよ。私は甘えられるのが好きですからね。彼はそれも分かっていて甘えてくれてました。甘えることが気を遣うことになるというのも、面白いものですよね」
 初めて香織が笑顔を見せた。その笑顔はさっきまでの落ち着き払った表情とは違って、血が通っていることを十分に感じさせるものだ。最初はどのように笑顔を取り繕おうかと思っても、すべて彼女のポーカーフェイスに吸い込まれてしまいそうな気がしたのだ。
「何が怖いって、表情のない顔ほど怖いものはない」
 と言っていた人がいた。何を考えているか分からないし、表情が変わるよりも、どんな態度に出られるかの方が恐ろしい気がした。ポーカーフェイスの恐ろしさは、そんなところにあるのだろう。
「私の顔に何かついてます?」
 最初から見つめられていることに気付いていたくせに、後になって、しかも中途半端なタイミングで聞かれると、ハッとしてしまった。それ以上に、「間」を取るのが絶妙な人なのだということに今さらながらに気がついた。
――お互いに冷めていたのだろうか?
 今の香織を見ていると冷めていると見られても仕方がないかも知れない。だが、それは好きになった相手が冷めていることに気付いて、自分も目が覚めたからなのかも知れない。私が香織の立場でも同じ感覚になったかも知れないと思ったが、たぶん香織とは違っていただろう。
 私の場合は冷めるよりも前に、自分の惨めさを思い知ることになる、惨めさを思い知ってしまうと、冷めてしまった感覚よりもさらに奥が深い気がする。自分の殻に閉じこもってしまい、まわりがどのように見ているかという意識が強くなる。さぞや情けない目で見ていると思ってしまうと、何もできなくなってしまう。そんなところが私の悪いところだと分かっているのにどうしようもないのだった。
 一歩前に出て話をすればいいのだろうが、惨めさを感じてしまうと、自分から人に歩み寄ることができなくなる、そのせいで人に迷惑などを掛けてしまい、相手に怒られたり詰られたりしてしまうと、完全に萎縮してしまうのだ。
――私には冒険はできないんだ――
 と思うようになった。
 もし冒険して、うまくいかなかったら、悩みは深く、抜けるまでにかなりの時間を要することだろう。しかも、悩みから抜け出したとしても、そこに舞っているのは、以前の自分ではない。さらに惨めさを背負った自分がそこに残るだけだ。
 惨めさを背負った人間は、感情を半分忘れてしまっている。喜怒哀楽を忘れてしまったのではないかと思うほど、感動しなくなるのだ。かと思えばテレビドラマなどで、以前は漠然と見ていたシーンでも、感動シーンとなれば涙を流すこともある。
「年を取れば涙もろくなるからね」
 と、ドラマを見ながら涙を流す人の言い訳とも取れる言葉を思い出した。照れ隠しからそのようにいうのだろうが、私の場合はまさしく同じ心境であった。
――他人事だと涙を流すことも多いのに、自分のこととなると、どうしてここまで無感情になるのだろう?
 自分に関わりのある人が、どうにかなっても、感情を表すことなどない。
 知り合いが結婚したら、素直に喜んでお祝いしてあげようというような感覚はない。逆に自分よりも先に結婚する相手を羨ましく思い、嫉妬さえする。まわりの人が素直に喜んでいる姿がウソっぽく見えてくるのは、自分が素直ではないからだけなのだろうか。下手をすると肉親が死んでも涙など出てこないのではないかと思うほどだった。
 最近、そんな自分が情けなく思えてきた。
 どうすれば感情を他の人のように戻せるのかと悩んだ時期もあったが、最近では流れに任せてしまって、感情がさらに冷えてきているように思う。人といるよりも、家でテレビドラマを見ている方が落ち着いた気分になれるのが、その証拠である、
 そんな風に自分を感じていると、香織という女性が見えてくるような気がしてきた。
――彼女も名高先輩を探しているんじゃないだろうか?
 その根拠はないが、我々と話す時間が長引けば長引くほど、香織が焦れてくるのが感じられるのだった。
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次