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短編集69(過去作品)

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 と、彼女は言ったが、別に待たされたわけではない。彼女は約束の時間に現れたのであって、私たちが先に来て待っていただけなのだ。右も左も分からない土地で、待ち合わせをしたのなら、早めに行こうと思うのは道理であったが、それにしても約束の時間よりも二十分は早く着いた。この二十分に、今まで感じた二十分とは雰囲気が違い、短いようで長かった。人を待っている待ち遠しさとはまた違う。待たされているわけではないのに、待たされている感覚に陥ったのは私だけだろうか。
 それにしても、彼女のことを調べれば調べるほど、まわりに先輩の気配はおろか、男の気配も感じない。浮気をするような奥さんではないという話であったが、私が見ていても同じだった。
「人は見かけによらない」
 というが、あれほどまでにおどおどしている人が不倫をするものだろうか。しかもどこかに駆け落ちしているわけでもなく、普通に暮らしていたのだ。
「よほど度胸が据わっているのかも知れないわ」
 待っている間、ゆかりが呟いた。ゆかりの頭には奥さんは不倫相手にしか見えないのだろう。
――どこか、坂田由美子さんに似てるな――
 と以前に一目惚れした女性のイメージを思い起こさせる雰囲気を持っていた。
「山中さん、今日はわざわざご足労いただいてありがとうございます。私は和田ゆかり、そして、こちらは中西博之さんです」
 そういって頭を下げたゆかりの後ろから私も頭を下げた。しかし、何となくバツの悪さを感じ、頭を下げながら少し頭を上げて、相手を見ていた。すると相手もこちらを見ていて、さらにバツの悪さを感じたが、ゆかりだけは、本当に深々と頭を下げていた。頭が下がるのが本当はこちらの方だった。
 奥さんは山中香織という名前で、初めて見た雰囲気そのままに大人しい雰囲気が醸し出されていた。家ではさぞかしいい奥さんなのだろうと思わせるに十分であった。
 香織を奥に座られて、私たちは手前に座った。あくまでも香織が主役であり、我々はよそ者だと言わんばかりだった。それでも威圧感は相当なもので、横にいるだけで圧迫感を煽られてしまう。
「私たちがなぜ、この金沢に現れたのか、あなたにはお分かりですよね?」
「名高さんのことでしょう?」
 直球勝負で挑んだゆかりに対し、香織も真っ向勝負を挑むのではないかと思うほど、素直に名高先輩の名前を口にした。しかも先ほどまでの怯えていた様子も少し薄れたようで、何よりも悪びれた様子がない。
――開き直ったのかな?
 と思うほどだが、開き直りでもなさそうだ。最初からの怯えは何だったのかと思わせる。
「分かっているのなら、話が早いですね。名高さんは今どこにいるのでしょうか?」
 落ち着いた様子で、言葉を噛み締めながらゆかりは聞いた。
「私のところにいると思っていらっしゃるんですね?」
「ええ。でも、あなたは今までと変わらぬ生活をしておられる。どこにも名高さんが入り込む隙間がないような気がするんですが、いかがなんですか?」
「はい、確かに名高さんとはお付き合いをしていた時期もありましたが、今私は自分の生活に戻っています。私の周りに名高さんを感じないのは当然だと思います」
「失礼なことをお聞きするようですが、それはあなたが、家庭を選んだからだということでしょうか?」
「少し違いますね。確かに私は家庭を思い出しました。でも、それは名高さんの求めているものが私ではないということに気付いたからです。名高さんはいつも悩んでおられました。実は私たちが出会った時も名高さんは、お悩みだったんです。何について悩んでいるかというのは、今も私は分かりません。ただ、絶えずあの方は悩んでいたように思うんですよ。私たちが仲良くなったのは、私も主婦として抱えるストレスがありましたので、お互いに、癒しを求めていたことから始まったのかも知れません」
 香織の言葉に、私は説得力を感じた。ゆかりが、香織の話を聞いてどのように感じているかまでは分からなかったが、一生懸命に考えているようだった。
 少なくとも名高先輩は、私の前で悩むような姿を見せたことはない。ゆかりの前では少しはあったかも知れない。そう思うのは、香織の話を聞いて、私のように単純に説得力を感じるだけではないからだ。それはきっと自分に見せた悩んでいる姿と、香織に対して見せる悩んでいる姿とを頭の中で比較してみていたのかも知れない。
――いったい、どんな顔で悩んでいたのだろう?
 と、ゆかりは考えているのではないだろうか。
 香織の話を聞いていて、先輩は二重人格ではないかと思えた。
 二重人格というと、あまりいいイメージはないが、先輩はきっとまわりに気を遣うことで二重人格にならざる負えなかったのかも知れない。
 私は、今まで幾人かの二重人格ではないかと思える人を見てきたが、誰もがすぐには二重人格だとは分からない。何度も話をしたりして、お互いに気心が知れてくると、
――この人は二重人格なのではないのかな?
 と思うようになった。
 それは、その人が相手によって態度を変える、つまりは気を遣っていることで結果として二重人格のようになってしまうからだ。だから私は二重人格を頭から否定しない。悪い性格だとは一概には言えないと思うのだった。
 先輩のような人が、一体何で悩むというのだろう。
 悩みは人それぞれ、悩みがないように見える人でも、意外と深いところで悩んでいたりする。何も考えずに生きている人から見れば、
「どうしてこんなことで悩むんだ?」
 ということも多いだろう。人と話をすることが悩みに繋がる人もいる。私は今までどちらかというと、人と話をしないことの方が寂しいと思う人ばかりを見てきたので、話ができることがありがたいくらいである。それなのに悩むということは、それだけ人との関係を大切に思っているからだろう。
 私は人をすぐに信じてしまう。疑うことを知らないくらいだった。だが、相手はこちらが考えていることと同じことを考えてくれるのであれば、何ら問題はないのだが、いちいち考えこまれてしまうと、不安に思えてくる。
 それなのに、何が不安なのか漠然としていて分からない。不安が漠然としていることほど気持ち悪いものはない。今、ゆかりと香織の会話を聞いていて、まるで狐と狸を見ているようで、二人とも海千山千を感じさせた。男同士の話だと、また雰囲気が違ってくるに違いない。きっと女性同士のようが、生々しく聞こえることだろう。
 話が進むにつれて、ゆかりの方が若干押され気味になっていた。香織はずっと落ち着き払っている。それに対して最初は同じように落ち着き払っていたゆかりは、次第に攻撃的になり、そのうちに押され気味になってくるのが、明らかになってきた。
 攻撃もしてこない。これと言って守ろうとしている態度を取らない相手に対し、攻撃態勢を取り、腰を低くして構えてしまったことで、二人の間の均衡が崩れてしまった。その瞬間に優位は決定づけられたと言ってもいいかも知れない。
 ゆかりにとって香織は敵ではないようだった。年齢的なものなのか、主婦という経験が女を強くするのか、勢いや威圧だけで渡り合っていけるのは、学生時代だけなのかも知れない。
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次