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短編集69(過去作品)

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 悪いことをしているようには見えなかった。もっとも凶悪犯なら、逃走ルートくらいはきっちりと持っているもので、こんな山奥に隠れることもないだろう。この車両に乗り合わせたのは我々二人だけだった。この列車が主要駅に到着するまでにまだ二時間近くはある。この人もそこまで行くのだろうか?
 五つ目の駅あたりから少し人が乗ってきた。相変わらず車窓を眺めていたが、その人の様子も相変わらずだった。
「なんだ、ただ雰囲気が暗いおじさんというだけか」
 ホッとしたあまり、思わず何かを期待していたような溜め息を漏らした。あまりいい期待ではないが、それを好奇心と呼ぶ。好奇心は誰にでもあり、大きければ大きいほど危険を孕んでいる。
 それにしても無表情な男だった。無表情な人ほど、いろいろなことを考えているんだろうと思っていた私だったが、その男には何かを考えているという雰囲気は感じられなかった。かといって目に曇りがないわけではない。考えることに疲れているのか、それとも考えることを忘れてしまったのか、そのあたりに思えた。
 その男は途中の寂れた駅に降り立った。それと同時に数人が乗ってきたのだが、彼らは学生なのか、一気に賑やかになった。それまでの彼の雰囲気を打ち消すかのような雰囲気であったが、私には彼の存在が忘れられなかった。むしろ彼らが入ってきたのは、あの男が自分の雰囲気を皆から消し去ろうとして、わざとここで降りたのではないかと思わせるほどだった。
 その男が電車を降りてから座っていた席を見ると、ぐっしょりと濡れていた。水をかぶったかのように濡れているその場所は、日差しが当たって、キラキラと光っていた。光が目に慣れてきた頃には、あれだけぐっしょりと濡れていた場所が、まるで嘘のように水は消えていた。
 その変わり、濡れていた部分が今度は影のようになって、薄い黒い色のシミになっていた。シミというより、やはり影と言った方がいいだろう。
 よく見ると、影が少しずつ移動しているように見える、それは日の傾きに関係があるように思えて、それで移動しているように思うのだった。移動しながら影が人間の形に近づいていくように見えるのが不思議だった。
 しかも次第にさっきの人のような形に見えてきた。影が元の人間の形に戻ってくるような感覚だ。
 さっきの人は、かなりの猫背だった。車窓を見る時の視線が少しぎょろっとしていて、気持ち悪かった。
 そんな思いだけが残っていて、影が男の姿に戻ってくると、まるでそこだけ空気が薄く感じられた。薄くなった空気は湿気がない分、濡れていたところがすぐに乾いた。そして乾いたところにできた影が男の姿に戻っていく。これは妄想に近いものだった。本当に妄想だったのかも知れない。今となっては、それを証明するすべがないからだ、
 あれは確か冬だった。春がそこまで来ているはずなのに、まだまだ寒い日が続いていて、車窓から差し込む日差しがまるで縁側での日向ぼっこを思い起こさせた。
 縁側と言えばおばあちゃんが膝に猫を抱いているイメージだ。ぽかぽか陽気を感じ、日差しで動く影を見ながら、猫を思い出したのは、変な感覚だった。
 猫には甘えたがる猫と、ただその場にいるだけの猫がいるが、その時に感じたのは、その場にいるだけの猫だった。好き勝手に動き回る猫なのだが、その行動には規則性があり、勝手気ままと言われている猫とは思えないところがある。
 猫はさっきの男を追いかけているようだ。その場にはもういないのに、いるような感覚の素振りに私も男が戻ってくるような錯覚に襲われた。
 猫自体、電車の中にいるはずがないのに、幻だと分かっていながら、私はさっきの男を思い出そうとする。だが、どんな男性だったのか、次第に記憶が薄れていくのを感じていた。まるで猫が男の気配を消していくようだ。
「猫が男に? 男が猫に?」
 どちらかが乗り移ったかのように思えた。
「ニャオ」
 猫は一声鳴くと、すぐに消えてしまった。まるで一声鳴くためだけに出てきたようだ。
 電車はその後何事もなかったかのように私が下りる駅に着いた。初めて降りた駅だったのに、初めてきたような気がしなかったのは、私が以前に訪れたことのある駅に似ていたからだった。
 この駅は、他の線の始発駅にもなっていて、ここで乗り換える人もいる。街自体は温泉町で、その時私はその街の温泉に立ち寄ったのだ。
 露天風呂で知り合った人がいて、その人に誘われるまま、温泉街の奥にあるスナックに連れて行かれた。実はその時が私にとっての初めてのスナックだった。カラオケ設備などもあったが、その人はカラオケに手を付けることもなく、ただ、話がしたかったようだ。
 その人の話は、温泉街にまつわる奇怪な話をしてくれた。一番気になった話は、温泉に浸かった後に散歩した時、小高い丘の麓に真っ赤な鳥居があり、そこから急な石段が続いていて、丘の中腹にある境内を目指したことがあったということから始まった。石段を昇りきると、境内まで石畳が続いていて、狛犬が二体お互いを向き合いながら並んでいる。どこにでもある境内の風景である。
 石段を一つ一つ踏みしめるかのように歩いていると、次第にオオカミの遠吠えのような声が聞こえてきた。よく見ると、狛犬の顔が少し上を向いていて、口が少しであるが開いている。
「まさか、狛犬の遠吠え?」
 と思いながら狛犬を気にしながら境内に近づいたのだが、いくら歩いても境内に近づくことができない。間違いなく進んでいるのにである。
 不思議に思ったが、後ろを振り向くことができない。前に進むしかないと思い、前を目指すが、今度は足が重たく感じるようになり、前に何か見えない壁のようなものが存在しているように思えた。
 焦れば焦るほど前に進めるわけもなく、脂汗を浮かべていた、すると、目の前に白い閃光を感じたかと思うと、そのまま気絶してしまっていたようだ。
 気が付けば狛犬の前で目が覚めた。すでに夜になっていて、境内の明かりが薄暗くはあったが、あたりをかろうじて照らしていたのだ。
 私がその話に興味を覚えたのは、その話を聞くのが初めてではなかったからだ。誰から聞いたのか覚えていないが、確かに似たような話だった。狛犬の遠吠え、白い閃光、石段から境内までの風景も、最初に聞いた時にイメージしたのと同じものであった。
 その話を聞いた後、今度は私が、さっきの電車の中の話をした。男も興味深げに聞いていたが、聞きながら何かを考えているようだった。同じようなシチュエーションではないにしても、似たような雰囲気を感じる何かが男の記憶や意識の中にあったのだろう。それがどこから来るものなのか、一生懸命に考えていた。まとまったのかどうかは分からないが、私の話に対して、男のリアクションはなかった。
 わざと感情を押し殺していたのか、それとも何かを私に知られたくないという思いがそうさせるのか、リアクションのなさが却って興味をそそられているかのようだった。
作品名:短編集69(過去作品) 作家名:森本晃次